その知らせは突然に飛び込んできた。北条氏政率いる大軍勢が武田領内へと侵入してきたというのだ。それももの凄い速さでだ。 近頃では少しずつ勢力が落ちてきておりあまり目にかけていなかったが、どうやらその隙をつかれたらしい。侵入を許してしまったのも、その気の緩みがあったのだろう。 この知らせに城内は一気に緊張に包まれる。北条家は歴史ある家だが、今や氏政のような老人一人が城を治めており、周囲からもたやすく落ちる城などという酷い言われ様であった。 しかし今回侵入きたのはそんな衰えも感じさせぬ程の大勢の兵と気迫だった。更に北条は伝説の忍である風魔を雇ったとの噂もあり、その力も大きく貢献しているようだ。 「今は佐助自らがその風魔を追っておる。わしらは北条を討ち取ることに集中するのだ」 「はっ!」 部屋に呼ばれた幸村は、信玄から直接状況を聞かされていた。 佐助をはじめとした、幸村や総大将の信玄という武田の要となる者らがすぐにでも出陣しなければならない程、戦況は悪いようだ。このまま放っておけばいずれは領地の境に近い村や、最悪城下町にまで戦火を拡げる可能性もある。それだけは絶対に避けたい事態だ。 そう語る信玄の険しい表情や雰囲気を見て、幸村も事の深刻さを痛感した。 「これを機に北条の領地も我が武田のものとしてくれようぞ。ゆくぞ幸村!! 先陣はお主がきってみせよ!」 「この幸村、お館様のどこまでもついてゆく所存! 任せてくだされ、お館様ぁ!!」 声を上げると、二人は足早に部屋を後にし武田軍兵士らの集まる大手門の方へと向かう。準備は大急ぎで行われたが、なんんとか短時間で済ますことが出来たのだ。 集まった兵士らも信玄、幸村に次いで緊張感が漂うがその中には溢れんばかりの闘志も伺える。それを見て信玄も心の中で安心する。 「父上!」 大将も揃いいざ出陣、という時にその場には似つかわしくない声が響いた。 「殿! 何故、」 「決まっているでしょう。見送りにきたのよ」 本来なら本殿にいるはずのが、この緊迫した状況にある時にこうして見送りにくることは滅多になかった。戦況が悪化、危険と判断された際には、武田の姫であるは数人の侍女や兵らと一緒に篭城していることが普通であった。それを分かっているのに、あえてこうして見送りに来たのはにもそれなりの理由があってのことなのだろう。 「父上。私は戦法など名前しか学んではきませんでしたが、いきなり侵入してきて民を脅かそうとするような奴らを私はどうしても許せません。北条をすぐにでも討ち上洛への道の踏み台にでもしてもらわねば、腹の虫が治まりません」 「勿論よ。武田を見くびったこと、後悔させてやるわい」 「それを聞いて安心しました」 父である信玄の返事に満足げに頷くと、兵らの方へと顔を向けた。 「みんな! 急な戦で大変だけれど、北条の奴らに一泡吹かせてやってね!」 「もちろんです、姫様!」 「様にそう言われちゃ、負けらんねぇな!」 「何言ってやがる、はなから負ける気なんかねぇよ!」 わははは、と大きな笑い声が起きる。兵らもの言葉を受け、更に士気が上がったようだ。 そしては、幸村の方を振り向いた。 「きっと厳しい戦いになると思う。きっと北条の方が兵力も上回っているでしょうし」 「……それでも某は、必ずお館様と共に北条を討ち取ってみせるでござる」 不安げな面持ちで切り出すだが、そんな彼女を見て幸村はそっと肩に手をかけながら言った。その目に迷いなどはなく、彼は必ず北条を討ち取るだろう。はそう思えた。 肩に置かれた手を握り返すと、そのまま手を戻した。 「――御武運を」 それを聞いた幸村ははっきりと頷くと、に背を向けて信玄と共に隊列の先へと向かう。そして武田軍は北条を討つべく、館を後にしていった。 その姿を目で追っていたが、やがて姿が見えなくなると一つ息をついた。毎回見送りの際には、どうしても考えたくない「死」が横切り緊張するのだ。 「……絶対、帰ってきてよ……」 無意識のうちに、は袿の上から首にかかる御守りを握り締める。手にはじわりと嫌な汗が滲み、肌にある御守りも熱く感じられた。それは武田軍の闘志をあらわすのか、それとも―― 「様、今夜は本殿の方へ。北条が奇襲を仕掛けてくるかもしれません」 「……そんなの父上たちがさせないと思うけどね」 鷹に声を掛けられ、は後に続き本殿の方へと足を進めた。 ◇ 本殿で夜を明かしたをはじめとした侍女や兵らも、翌日の昼からは本殿の限られた範囲内でのみ外に出て活動していた。ただ念を押してには常に鷹と侍女と兵が2名ずつついていた。佐助の従える忍も天井裏に潜んでいることだろう。それ程に、の存在は今の武田にとっては重要なものだった。総大将の身内が人質にとられてあえなく降伏を余儀なくされたり、要求に応えられぬ場合には殺害、などということもこの戦国の世では珍しくはない。それを警戒しての配備だ。 その状態が一日、三日、一週間と続いていた。戦況を知らせる便りにも変化はなく、北条との戦はまだ続くと思われた。勿論、北条との決着がつくまでは周辺警護の緊張は解くはずもない。 しかしにはやはり、窮屈に感じられたらしい。 「……ねえ、絶対に一人にはしてくれないの?」 「なりません。北条がどのような手を打ってくるか、私どもには想像もつきませぬ。ゆえに厳重な警護をと、お館様や幸村様にもきつく言われております」 「相変わらず過保護ね。こんなんじゃ息もつく暇もないよ」 「その息をついた時に、こうして北条が攻め込んできたのでございます」 「…………」 が不満を口にすれば、その上の上をいく言葉で鷹が説き伏せる。いつもなら少しの我が侭くらいは許されただろうが、現状が現状なだけに決して一人にはさせないようだ。 最初の方は仕方ないことだと納得はしていたものの、こんなにも長く感じられるとは思ってもいなかったのだ。しかも一週間、どこに行くにも必ず人が自分についている。普段では絶対に想像の出来ないものだ。 「父上たちは、大丈夫なのよね?」 「文ではそのように。領地内への侵入は抑えたようでございます」 「その周囲に村や人家は?」 「いくつか集落がありましたが、既に避難済みとのこと。民に被害は及びませぬ。……さあ様、もうよろしいでございましょう。中にお入りくださいませ」 「……はあい。今日は刀? 弓それとも馬?」 「ご冗談はおやめくださいませ」 「…………ごめんなさい」 今までで一番冷たい声で言われてしまえば、それ以上口を開くことは許されない。それを自身もよく分かっていた。鷹が稽古をつけるのは武芸などではないことも、だ。 渋々と部屋の中へ入ると、中には侍女が、部屋の前には兵が待つ。いつもとはやはり部屋の様子が違うが、の奏でる琴の音はいつもと同じように、優しく流れるように城の中へと響き渡っていった。 ◇ 一方。信玄率いる武田軍は早くも北条軍との接触に成功し、あちら側の先陣隊をつい先ほど幸村が撃破したところだった。 しかしまだ先陣隊のみ、北条軍はこの攻撃を機にこれから多くの兵を使い武田軍を攻撃してくることだろう。 信玄は先ず本陣を立てて体制を整えることから始めた。森林の中に開いた場所があり、立地条件からもその場が最適とみてのことだ。周りには勿論兵士と忍が配備され、今は信玄と幸村が本陣で戦法について話をしているところだ。 「大将。猿飛佐助、ただいま戻りました」 「佐助!」 その時、本陣内に佐助が現れた。普段の忍装束とは違い、今は闇夜に溶け込む黒の装束をまとっている。口元を隠す布を取り、佐助も幸村と並ぶ。 「よく戻った佐助。して、風魔はどうだ?」 「領地内への侵入は防ぐことは出来ましたが、それも足止めにしかなりませんでした。やはり風魔の使う術は特殊で、北条のじいさんに呼ばれてあっという間に消えちまいました」 「……そうか」 「北条の方を視察してきましたけど、相当な数の兵と武器が揃ってましたよ。相当厳しい戦になるかと」 厳しい表情で報告する佐助を見て、重い雰囲気が漂う。未知の術を使う風魔、そして大量の兵と武器という武田にとっては不利としか思えない状況だ。 それでも、自らが治める領地へ侵入し、民をも脅かそうとする北条を必ず討ち取らなければならない。これは武田の使命、そしてとの固い約束でもある。 「いくら不利とて、武田の兵は北条の何倍も鍛えとるわい。数では負けても、力で圧倒するのみよ」 「そうでござる! いくら騎馬隊がいなくとも、我ら武田の力はどこにも負けはしませぬぞ!」 にやり、と不敵に口元に笑みを浮かべる信玄に、幸村も完全に触発されたようだ。漂っていた重い雰囲気も、その威勢のよい声で吹き飛ばしてしまう。 「風魔を抑え、兵を突破さえすれば北条一人を討つなど、容易いこと」 「佐助! 次こそ風魔を捉えてみせよ!」 「言われなくてもやってみせますって。旦那はくれぐれも無茶しないでよ、俺様そこまで気が回せないから」 「無論だ。先陣をきり、お館様が北条の陣へと乗り込むべく道を作るのが、某の役目なのだからな!」 「よく言った幸村! そうと決まればすぐにでも策を練るぞ。北条がいつ奇襲を仕掛けてくるか分からんからの」 そうと決まれば、と早速地図を広げて策が練られ始める。 周囲を守り固める兵らも、聞こえてくる信玄や幸村の声を耳にして一層に士気が高まっていった。数は劣る、だが力では負けぬという強い意気込みを持ち、武田軍の夜は更けていく。 ◇ 信玄らが出発してから一週間が経ち、更に日は巡りまた一週間が経とうとしていた。 躑躅ヶ崎館は今日もまた静かで、何の異変もない極めて平和とも言える中にあった。武田名物とも言われる信玄と幸村の声も、本人らがいないのではまるで聞こえるわけもなく、城内は静寂に包まれている。 どこかにいれば必ずにでも聞こえてくるその声は、こうして聞こえなくなるとなんとも物足りなさを感じる。その次に思うのは『早く帰ってきてほしい』だった。 「……こんなにも静かな館、久しぶりね」 「そうでございますね。いつもはお館様や幸村様が大きな声で鍛錬をされていますから」 暖かな陽の差し込む部屋で、は侍女の一人であるとお茶を啜っていた。相変わらず部屋の前や近くに兵はいるが、その姿は確認しにくい場所にある。以前と比べると、警護に関して気が使われているように感じられた。 これも日に日に顔色の悪くなるを見て、鷹が考慮したことなのだろう。その鷹も今日は隣の部屋におり、姿は見えない。実質、部屋の中にはとの二人きりだ。 「ですが様の顔色も戻られて、私共はとても安心しているんですよ」 「心配かけてごめんなさい。でも体調が悪いわけじゃないのよ? ただ……」 ただ――不安なだけで。 それを察してか、侍女は何も言わずにの湯のみに新しく茶を注いだ。 体調が悪いわけでも、厳重な警護が耐えられないわけでもない、ただ不安なだけ。戦況を知らせる文を読んでは、毎回あまり代わり映えのしない内容に安心とも落胆とも言えぬ息をつく。 戦況の悪化や誰かの死の知らせがこないことには安堵するも、未だに大きな動きが見えないということはそれだけ戦が長引くということ。それには思わず溜息をつくしかない。 「きっと皆は頑張っている。けれど私はこうして呑気にお茶を啜っているのよ? そう考えると嫌で嫌で仕方ないの」 「……様は武田唯一の姫様でございます。姫様というものは血生臭い戦などというものに、一切接点などは持たないものですよ」 「それは、分かって……いるんだけど」 他の姫というものは、蝶よ花よと大事に育てられるものであることをも知っていた。武芸を自ら嗜もうとしたり、戦について知ろうとする自分が珍しいのだということも、知っている。 けれど、大切な人たちが命をかけて戦をしているとなると、自分も力になりたいと思ってしまうのがだった。しかし、力になりたいと思えども実際には周りを困らせるだけで、いざ戦となれば何も出来ずにただ守られるだけの身。 そんな自分に嫌気がさし、今やの心情は大荒れであった。 「……姫様はいつも明るく振舞われていらっしゃいます。それが皆の活力に繋がるのですよ。知らない間に、姫様は皆の力となっているのでございます」 は優しい声色でそう言った。それを聞いたはゆっくりとの方へと顔を向ける。 嘘でもお世辞でもない、心にそのまま染み込んで来るような響に、はどうしようもなく泣きたくなった。けれどこんなところで泣いても弱さを晒すだけ、目から零れそうになる涙をなんとか堪える。 「……ありがとう」 ぽつり、と呟くとそれには笑って応えた。 は庭先の方へと目を向けると、心の中で戦へと赴いた彼らの無事を願う。そして、幸村のことも。 「(幸村が無事に戻ってきたのなら、言おう。自分の、気持ち)」 幸村の御守りを渡された時、彼の言うことがとても嬉しかったのだ。『真に守るべき相手』それが自分であると、そう告げられた時のことが今も心に色濃く残っている。 触れた時の熱、真剣な眼差し、心臓の高鳴り、その全てが御守りを手にするだけでも思い出せるほどに。 幸村の気持ちを告げられた今、自分も気持ちを伝えるべき時がきたのだと、御守りを手にした時に確信していた。ただの姫とその家臣ではなく、幼馴染としての関係を取り戻したこの時にこそ、告げるべきだと。 伝えたら、彼はどのようにかえしてくるだろう?驚くだろうか?真っ赤になって固まってしまう?それとも自分は家臣であると、また御託を並べる気だろうか。そうしたらまた張ったおしてやろう、そんなことを企みながらはずっと外を眺めていた。 様々な思いを募らせながら、更に日が巡り――そんな夜に、影が動いた。 ← TOP → |