躑躅ヶ崎館内には、今日も流れるような琴の音が響いている。 城を抜け出しがちであったも、近頃では琴や茶の稽古を積極的に受けていた。その理由も、付き女中の鷹には分かっていたのだが。 「――はい、結構でございます」 「ありがとうございました。……ねえ鷹、どうだった?」 「様はもう鷹めの稽古を受けるまでもありませぬ程、お美しい音を紡がれまする」 ほほほ、と上品に袖で口元を隠しながら笑う鷹が、には面白がっているようにしか見えなかった。 「もう、からかわないでよ」 「滅相もございません。本当の事でございますから」 片付けをしながらも、鷹の笑みは絶えない。琴の腕を褒められている筈なのに、何故か腑に落ちないのであった。 そして丁度その時、廊下の方から誰かの足音が聞こえてきた。静かに、けれどしっかりと聞こえる音。はすぐに足音の主に気づいた。 「失礼致す。殿、稽古は終わったでござるか?」 「勿論! さあ幸村、入って入って。鷹、お茶をお願いできる?」 「はい、畏まりました」 声が掛かった途端、思い切り障子戸を開いた。するとそこには少し驚いた表情の幸村と、団子の乗った皿があった。 半ば強引に幸村を部屋の中へと招き、鷹に茶の用意を頼むこの早業はにしか出来ぬことであろう。 が稽古を積極的に受ける理由――それは稽古後を見計らってやってくる幸村と、それの持ってくる団子であった。本人から聞いてはいないが、それが理由であると鷹は確信していた。 鷹が茶の準備の為に退室すると、は嬉しそうに話し始めた。 「今日も時間丁度だったね」 「殿の琴は城内によく響くでござるからな、音が切れたら分かるのだ」 「そうでもないよ、途中で切れることもあるし。……ちゃんと終わる時間、分かるんでしょ」 「ど、どうであろうか」 口ごもる様子に、更に頬が緩む。 お互いの気持ちを告白して以来、二人の距離は格段に近くなっていることを本人達も感じていた。 幸村の本来の口調は変わらずとも、話し方も自然となりともこうして他愛ない会話で様々な表情を見せるようになった。それを見ても嬉しくなり、笑顔が絶えない。 子どものように共に遊びまわることはなくとも、二人でいる時間はずうっと多くなっていた。 「失礼致します。お茶をお持ちいたしました」 「ありがとう。そうだ、鷹も一緒にお団子食べない?」 「いえいえ、お二人のお邪魔をするわけにはいきませんから」 「鷹殿……!」 また同じ様に笑う鷹に、今度は幸村が反応した。面白がっている、というよりは微笑ましいものを見ているようだった。 「幸村様、様、中もよろしいですが外も綺麗でございますよ」 「外?」 「そういえば花びらが舞っていたな」 「じゃあ廊下で食べよう、ちょっとしたお花見になるかも」 鷹に薦められる通りに部屋から出ると、庭では風に乗ってひらひらと花びらが舞っていた。 近くに桜の木でもあるのか、香りとともに花びらが舞いその光景は美しい。 「それでは私はこれで。何か御座いましたら女中部屋の方におりますので、お言いつけくださいませ」 「何から何まですまぬ、鷹殿」 「これが私めの役目でございますから」 そう言って鷹は静かに障子を閉め、退室した。 「……わ、綺麗。ねえ見て」 「おお、これは風流でござるな」 ふと自分の湯のみを見ると、花びらが一枚茶の上に浮いていた。団子の乗った皿にも何枚か落ちており、それもまた春を思わせている。 「きっと満開の桜、凄く綺麗なんだろうな」 「桜並木は圧巻でござるよ」 「……そういえば、あそこの木も桜の木だったなあ」 ふと思い出したように呟くと、その意図を理解したのか幸村は苦笑を浮かべた。 あそこの木、とはよくが抜け出した際に向かう城下の木のことである。 「ねえ、幸村と一緒だったら問題ないでしょ? お花見に行こうよ!」 「言うと思ったでござる……」 「幸村がいれば私だって安心だから。ね、行こう?」 「……某と一緒ならば、大丈夫でござろう」 「! じゃあお団子包もう!」 幸村が了承するとすぐさま布を取り出し、二人分の団子を包み始めた。お茶を包むことは出来ないので、鷹の持ってきた盆に載せて部屋の中へと運んだ。 そして中から出てくる時には方に羽織りをかけていた。あの時と同じ、薄縹色の羽織りだ。 「こっそりと出よう、説明するのが面倒だから」 「またそのような事……後で某が佐助に口うるさく言われるのだぞ!」 「じゃあその時は一緒に怒られてあげるから。さ、行こう!」 は楽しみで仕方ないようで、団子の包みを手にすると幸村の手を取り庭に飛び出した。 はじめは手を引かれていたが、速度を上げて並んで走る。庭を横切る際、女中らに見られたものの止められるようなことはなかった。手を繋いで駆けている二人を見れば、誰も邪魔をしようとなど思わないだろう。 二人が心配する佐助も、恐らく無理に止めるなどという事はしないだろう。現に天井裏ではこれらの会話を全て聞いており、気づかれないように後をつけていた。 「(すっかり仲良くなっちゃって。……ていうか、俺様の扱いちょっと酷くない?)」 佐助が不満を心の中で零す間にも、二人は着々と川原の方へと向かっていた。いつもが抜け出す時に利用しているのだろう道を、今日は幸村と共に駆けて行く。 は嬉しさを噛み締めながら、少しだけ繋いでいる手に力を込めた。握り返してきた温かい力に、また笑顔が零れた。 ◇ 城を抜け出してからはゆっくりと歩き、なるべく人に見つからないような道を選びながら川原へとやってきた。 川はさらさらと陽の光を反射させながら流れ、水面には桜の花びらを浮かべていた。そして川に沿うようにして並ぶ木々には、見事な花が咲き誇っていた。 「……綺麗」 手を離して一人木の方へと駆けるを、慌てて幸村が追いかけた。 一本の桜の木の下に来ると、そっと手を添えて幹を撫でるようにして触る。 「きっと毎年、こうやって花を咲かせているんだよね。……有難う」 ひどく愛しそうに幹に触れる姿に、幸村はその木にさえ嫉妬の念を抱きそうになる。 目の前にいる娘は、植物にでさえ隔てなく愛を注いでいる。ついこの間まで、無意識のうちに隔てを作って接していたが、今はこうして嫉妬を抱くまでに距離が近くなっていた。その事にさえ、気づいてはいなかったけれど。 少しの時間そうしているとが振り返り、手招きをした。座ろうということらしい。 「このように風があると、花が散るのも早いだろうな」 「そうなる前に、私が布でもかけて防ぐもの」 「……殿らしいでござるな」 包んであった団子を取り出すと、一串ずつ手に取り口にした。甘すぎない団子は、ほのかに桜の香りもした。 甘味には何かと煩い二人だが甘味処の団子、そしてたまに佐助の作るものはとても美味しく気に入っている。今日の団子は幸村が甘味処で買ってきたものだ。 「こうやっていると、どこも平和なんだって錯覚しちゃうな……」 「――こうして春が来れば、いずれ各地が戦場となるでござる。某も、いつ出陣してもいいように準備をせねばならぬな」 「……その前に、こうして此処に来れて良かった。戦に出れば、いつ帰って来るか分からないから」 幸村は兵、自軍の戦が始まれば出陣することは当たり前だった。だからこそ、こうした時間がには貴重であり勿論幸村にとっても必要なものだった。 「某は、必ず帰って来るでござる。戦に勝利し、皆無事に甲斐にへと」 「当たり前でしょう。それを私は、城でどっしりと構えながら待ってるから」 冗談めいた口調で言うものの、本心は不安で堪らないだった。戦国乱世、いつ何処で死のうと不思議ではない時代だ。 「それは頼もしい限りでござる」 「じゃあ約束しよう! 次の春も、また此処で桜を見るって。今度は二人きりじゃなくて父上や、佐助も誘って」 この交わしはまた桜を見たいが為でもあるが、一番は皆が生きて帰って来るという願いが込められていた。その意味をとった幸村も、力強く頷いた。 「佐助には団子をしこたま作らせるぞ。きっととびきり美味いものが出来るに違いない」 「楽しみだな、きっと鷹や皆も色々なものを作ってくれるよ」 「良い者ばかりであるからな、武田の者達は」 次の春が来れば、再び此処で――今度は沢山の者達で賑わうに違いない。戦などなければ叶うに違いない、とは思わずにはいられなかった。 だが父の上洛の夢を思うと、少しでも早く戦がなくなることを祈るしかなかった。兵でもないが出来る事は、強く祈りそして、皆の帰りを待つ事だ。 「幸村。約束を守らなかったら、私からの鉄拳をお見舞いするからね」 「そ、それは御免でござる……」 が笑うと、つられて幸村も笑った。二人の笑い声は、晴れ渡る春の空へも届いていった。 ← TOP → |