城までを鬼ごとの如く駆けていったと幸村だったが、普段鍛えている幸村に敵うわけなく、はすぐに捕まってしまった。
勿論、急に走り出したことやその他諸々のことへの注意も忘れない。(「走ってはいけませぬとあれほど!」「ごめんなさい! だからそんなに耳元で煩くしないで!」)
少し気落ちはしたものの、それからは逃げることなく素直に城へと戻った。門番兵などはその様子を見て「また姫様が……」と心の中で呟いていたが、顔には笑みが浮かんでいた。

様、お帰りなさいませ」
「ただいま鷹。また川原の方へ行ってたの」
「ふふ、存じ上げておりますよ。幸村様も、ありがとうございました」

出迎えたのは鷹だった。さして心配している様子はなく、寧ろ楽しげに見える。恐らくが着ている羽織りに、心当たりがあるのだろう。

「鷹殿、今から殿に琴の稽古をしてはくださらぬか」
「ええっ、今から!?」
「勿論でござる! 結果とは鍛錬無しには得られぬものでござる、殿も鍛錬を怠れば琴の腕も落ちますぞ」
「そんなー……」

のいない間に鷹に言ったことと、ほぼ同じことを口にする幸村。
そんな提案に当の本人であるは唇を尖らせながら「折角必要がないと思って抜け出したのに……」などと呟いていたが、幸村は聞こえないフリをした。ここで言ってもまた話が長引くだけであると分かっていたからだ。(やはり抜け出したのではないか!)

「鷹殿は、頼めるだろうか?」
「私めはいくらでも、様に稽古をおつけいたしますよ」
「鷹までそんなこと言うの?」
「某は、琴の音が聞こえるまで待っているでござる」
「……そういうのはね、待ってるんじゃなくて見張ってるって言うのよ」

恨めしそうに幸村を一瞥すると、は鷹と共に自室へと入っていった。部屋に入る最後の最後にもう一度幸村へと恨みの篭った視線を向け、は少々乱暴に障子戸を閉じた。
相変わらずなの態度に頬を緩めつつ、一つの役目が終えたことに息をついた。
暫くすると、部屋の中からは琴の音が聞こえてきた。穏やかな音に、も存外稽古を受けることもまんざらではないのではないかと思えた。
稽古を本格的に始めたと確信し、幸村は自室へと向かうべくその場を離れた。足を進める度に少しずつ音は小さくなっていくが、耳を澄ませば十分に聞こえるものだった。

「ご苦労さん、だーんな」

幸村の背後に、突然現れた姿。迷彩柄の忍装束に身を包んでいるこの男こそ、幸村に幼き頃から仕えている猿飛佐助だ。

「姫さんてば、また抜け出したの?」
「本人は違うと言っておるがな」
「変わんないねえ。……ま、そのお陰で逢瀬を楽しめたようだけど」
「おっ、逢瀬などとっ! 某と殿はそのような関係ではない!」
「……ふーん」

途端に顔を真っ赤にし、必死に否定する自分の主を見て佐助は内心溜息をついた。

「旦那さ、いい加減『家臣』みたいな態度、やめたら?」
「……何を言っておるのだ、佐助。某はみたいな、ではなく本当に家臣として殿に仕えておるのだ。お館様にも殿を守り仕えるよう、」
「ちがうだろ。大将がなんて言ったか知らないけど、それが本当の意味だなんて……思ってないよな?」

鋭い視線を、幸村へと向ける。瞳が揺れる。

「――知らぬ!」
「はあ?」
「某は、お館様の命を遂行しているまで!本当の意味、など、知らぬ!」

そう荒く言い捨て、幸村は自室の前を通り過ぎ、ドタドタと廊下を突き進んでいってしまった。

「(あの様子じゃあ、マジで分かってねーな旦那……)」

幸村の姿が遠くへと消え去ると、佐助は大きく溜息をついた。
根は真面目で熱い闘志を持ち、戦場では虎の若子や紅蓮の鬼などと恐れられる幸村だが、この鈍感さは難点と言わざるを得ない。


幸村の父・昌幸が信玄に仕えていたことから、幸村はよく父と共に躑躅ヶ崎館に足を運んでいた。
まだ幸村が「弁丸」と呼ばれていた頃より一緒にいた佐助も、勿論それに着いていった。そこで2人は信玄の娘・と出会った。
幼い2人が仲良くなるのに、時間は掛からなかった。
その頃からは活発で、所謂お転婆だった為幸村や佐助を連れて館の周辺の到る所で遊んでいた。時には危ないところを佐助に救われたり、小さな怪我もしょっちゅうしていたがとても楽しい時間を過ごしていた。 しかしそんな穏やかな時代は続かず、戦へと赴くべく幸村達は長い間躑躅ヶ崎館を訪ねることはなかった。
その時間の中で昌幸の戦死や、それを機に幸村が信玄へと仕えることを決めた。そして再び、幸村は佐助と共に躑躅ヶ崎館へと赴くことになる。

「……幸村、佐助?」
「……、殿か……?」

何十年ぶりの再会で、幸村とは最初互いに驚くばかりだった。成長した姿は、互いにとって良い意味で驚くしかなかった。

「幸村よ。この城の姫を――に一番に仕え、守ってやってはくれぬか?」

そんな時だった、信玄が幸村にそれを告げたのは。
それまでには忍がつき、怪しい者が近づかないか危険がないか、影ながら目を輝かせていた。
しかし幸村が城へと戻ってきたことを機に、より身近な人物をつけた方がにとっても良いと考え、幸村に頼み出たのだった。 真面目な幸村の性格を考え、名目上は「家臣」のような役目として言い渡したのだが、これが後々の悩みの種となりうるとは、誰も思いもしなかった。


昔、幸村とがよく共に遊んでいた時のこと。
一緒に遊んでいる時はとても楽しげであったが、二人をとりまくどこかやわらかい雰囲気からは、ただ単に仲の良さのみが分かるだけではなかった。
幸村とは互いのことを慕っていたのだ。
周囲の者達はそれに気づいていたが、本人達は年も関係したのか、全く気づいていはいなかった。 だがその気持ちに気づかないことは全く問題ではなかった。ただ二人は、一緒にいるだけで、とても楽しく幸福であることを感じられたから。

躑躅ヶ崎館へと幸村らが戻ってきた際、そのことを知っていた信玄は、信頼する幸村をの傍におきその護衛という目的の他に、また二人がそういった雰囲気になれば良いという願いがあった。
大切な一人娘が姫という立場に置かれれば、この乱世では政の道具となるのは目に見えていた。他国の全く知らぬ者に嫁にやるくらいなら。自分に仕える一番の家臣と夫婦にならんとした方が安心であった。
幸い久方ぶりの再会を果たした二人は、互いの成長ぶりに戸惑う場面は見られたものの、仲睦まじく談笑する様子からはまたあのやわらかい雰囲気が流れているように伺えた。 少なくとも、父としての目から見ると妃芽は昔と変わらず、幸村に思いを寄せているようだった。幸村のことを話す妃芽はとても優しい表情で、ほんのりと頬は色づいていたのだ。
今こそ話すべき時、と幸村を呼び、へと一番に仕えその身を守って欲しいと頼み出た――が。存外彼は真面目すぎる性格だったらしい。
主君からの頼みは勿論命令として受け取ったし、一番に仕え守るということも直接「家臣」と言わずともそう捉えてしまったのだ。信玄は決して家臣としてに接して欲しいわけではなかったが、どうも言葉が悪かったらしい。
それからは、二人の雰囲気は目に見えるようにしてぎこちなくなっていったのだった。

「(やれやれ、昔から手がかかるんだから……)」

これら全てのことに気がついている、数少ない者の一人――佐助がいた。先程の主君の様子を見る限りでは、信玄の願いやの気持ちなどというものに全く気づいていない。 言葉にしなくても伝わらない“何か”を、幸村も察知出来るようになってほしい――それが今の主君に望む、一番のことであった。

「(ま、今日はなんか良い感じだったらしいし?)」

二人の後についていった部下の忍によると、川原では談笑を交え鬼ごとまでしていたらしい。当初よりもずっと距離が縮まっていることが、その報告からは分かった。
事とというものは急いでも仕方の無いもの、そう考えを心の内でまとまると、佐助は風のようにその場から姿を消した。



庭での鍛錬を終え、ようやく気持ちが落ち着いた幸村は自室に戻っていた。
しかし、先刻佐助に言われた事が、まだ頭の中を漂っている様子。

「(本当の意味とはなんなのだ?某は殿に仕えるのが役目、なのではないのか……?)」

考え込んでいる幸村だが、その答えは一向に見つからなかった。自室で頭を抱えこんでから、数刻が経とうとしていた時。

――ぱたぱた……

小さく、足音のようなものが聞こえてきたのだ。それは段々と大きくなって、部屋の前で急に止まる。

「……幸村、いる? だけど」

やってきたのがだと分かると、返事をすることが少しだけ躊躇われた。 佐助に言われた事がまだ心にあり、一体どのような態度で接していいか分からなかったのだ。 しかしこうして妃芽から声が掛かれば、答えぬわけにはいかない。意を決し、幸村はすっと立ち上がった。

「幸村? ……いないのかな」
「某は、此処に」

障子戸を開けると、そこには目を丸くしてこちらを見るの姿があった。だがすぐに眉を吊り上げ、怒りながら開口一番に文句を言った。

「い、いるならすぐに返事してよね! 驚くんだから」
「申し訳ありませぬ。……して殿、何か用でござるか?」
「あ、そうだ。今さっき稽古が終わったから、次は幸村に刀の稽古をつけてもらおうと思ってきたの」

嬉々として告げる妃芽を見て、幸村はまたも思わず溜息をつきたくなった。どうしてこの姫様は、少しでもお淑やかにしてはいられないのだろうか。

「それはなりませぬ」
「えっ、どうして!?」
殿は姫君でござる! そのような危ないことさせられませぬ! まして刀などと、怪我でもされては」
「大丈夫よ、私だって刀くらい扱えるわ。この前だって佐助は苦難の投げ方を教えてくれたもん、」
「佐助ぇっ!!」
「(俺様かよ! ていうか、それは旦那には内緒って言ったじゃんか!)」
「ね、苦難も剣と似てるでしょ、だから」
「なりませぬ! それよりも佐助!出てこい!」

それからは、天井裏に隠れていた佐助を幸村が引きずり出し、その一帯には3人の声が響きあった。
近くの鍛錬場にいた兵士らもその声を聞き、その平和さに笑みを浮かべた。「またやってるよ、あの方達は」

の望みも少しは叶えてやるべきだと思ったんだよ!」
「だからといって苦難を教えるとは何事か!」
「旦那、過保護すぎ」
「そうよ! 父上にも軍配斧を持たせてもらったことあるし」
「「!?」」

その言葉に驚きを隠せない2人に、は首を傾げた。軍配斧を持つことが、そんなにおかしいことなのかとでも言いたげであった。

幸村は佐助に言われたことすら忘れ、いつの間にか平穏な日常の一コマが、城内の廊下では繰り広げられたのだった。


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