空が青く澄んでいる。鳥が飛んでいる。風のにおいがする。 なんてことない『今』こそが、私達にとっての『幸せ』なんだ。 今、それが身にしみるように感じられる。 「殿、幸村でござる。少し良いだろうか?」 声をかけるが、中からの返事は一向にない。もう一度名前を呼んでみるが、なお返事はない。寝ているのだろうか、とも思ったがそんな時間でもなく。それに女中頭に聞いたところ、今は部屋で琴の稽古をしているはずだという。 しかし中からは琴の音どころか、人の気配すら感じられない。まさか、と良からぬ事態が一瞬頭を過ぎった。 「あら、幸村様ではないですか」 そこへ付き女中の一人、鷹(よう)が通りかかった。女中の中でも古株であり、幼き頃の幸村をもよく知る人物だった。 「おお鷹殿、殿は中におられるだろうか?今は琴の稽古の時間だと聞いていたのだが……」 「様なら、また城下へと行かれましたよ」 「……またでござるか」 「ええ、またです」 ふふ、と笑いながら鷹は言った。逆に幸村は呆れ、溜息をついた。 「琴の稽古の筈でしたが、様が突然『少し外に出てくる』とおっしゃられて……止める間もなく、外へ駆けて行かれました」 「それでは、稽古は」 「ええ。また、延期です。ですが様の琴の音は、甲斐一と言っていい程にございます。稽古をつけるまでもないのですよ」 「それでも稽古は稽古、日々の鍛錬が結果を生み出すものよ。いつまでもそうは言ってはいられないであろう」 「では幸村様、また様を連れ戻してきてくださいませ。稽古の支度は整っておりますゆえ」 そうすると鷹は薄縹色に染まった一枚の羽織りを幸村に手渡した。幸村も、羽織りの意味を理解しそれを丁寧にしまった。 「……無論、そうするでござる」 「よろしくお願いします。では」 そう言って頭を下げると、鷹はその場を去っていった。幸村はもう一つ溜息をつくと、鷹の去った方向とは逆の方へと足を向けた。 幸村からは見えないところで、鷹がまた一つ笑みをこぼしていたとは知らず。 ◇ 厳しい冬が去り、春の芽吹きも間近に迫る今日。冬の名残がまだ肌寒く感じられる中、躑躅ヶ崎館の城下はそんな寒さをも吹き飛ばすかのように賑わっていた。 市ほどではないが各々が商品を売り、それを町人らが買っていく。この城下の様子を見れば甲斐の平和さが伺えた。 これも全てこの地域一帯を治める躑躅ヶ崎館城主・武田信玄の働きあってこそだろう、と幸村は思った。城下の様子を見て、幸村は改めて信玄の力を誇りに感じた。 国主が他国からの侵略や戦に勝たずして、このような平和な城下の風景は得られないからである。これでこそ、自分が心の底から仕えたいと願ったお館様だと。 「源二郎様! どうかされたんですか?」 甘味処の前を過ぎようとすると、店主から声が掛かった。『源二郎』は幸村が城下で使う通り名であり、他国かた来た者に対して武将であることを隠す役目を果たしていた。 「少し、探し物をしているでござる」 「姫様ですか?」 「…………」 「分かっておりますとも。先程うちにも寄ってらしたんですよ、団子をくれと」 「なんと、それは真であるか!」 探し物の正体を言い当てられた幸村だが、城下に住む者達は幸村が此処へ来るのはたいていが姫――武田信玄の一人娘である姫を探しに来る為だと知っていたのだ。 「姫様は、本当にええ姫様ですよ。今日も団子の作り方を教えてくれ、と言ってもらいましてね。そしたら姫様、店の手伝いまでしてくれたんですよ。私めは大した事してませんのに」 「……それは」 そこに丁度、甘味処の緋毛氈の縁台に腰掛けていた男が、会話に口を挟んだ。 「そういやこの間も、俺ん所で薪割りの手伝いさせてくれーなんて言ってきましてね」 「薪割りだと!?」 「ええ、流石に断らせてもらいましたけどね。でも姫様、薪運びの手伝いなんてしてくれましたよ。店でもねえのに、本当によう働く姫様ですよ」 幸村の知らぬ間に、は城下の店や町人の手伝いまで行っていた。の性格からしてみればやりかねぬ事だが、今の幸村はただ唖然とするのみだった。 この調子だと、他にもいくつかはやらかしている様子である。姫らしくないといえば、姫らしくない。が、町人達の笑顔を見るとまたのことも、信玄と同じように誇りに感じられた。 「して、殿はどちらに?」 「いつものように、川の方へ行かれましたよ。団子を持って」 「すまぬ、」 「いえいえ、とんでもございません」 店主にそう言うと、幸村は駆け出した。いつものように、とは小道を何度も抜けて川へと向かうこと。は城下に来ると、その最短距離を通り川沿いのある場所へと向かうのだった。 小道を駆け、川のせせらぎが聞こえてきた時。幸村の目の前には川と、その流れに沿うようにしてたつ並木が飛び込んできた。そして並木の中の一本の木の下に、よく知る者の背中が見えた。 「……殿」 「……あーあ、またバレちゃったんだ」 は声に気づくと、読んでいた本を閉じて顔を上げた。傍らには団子が数本置いてあり、先程町人らから話を聞いた幸村には甘味処から買ったか貰ったかしたものだろうと安易に予測がついた。 「また勝手に城を抜け出されて……稽古に出てもらわなければ困るでござる」 「私は自分の判断で、今日は琴の稽古はいらないと思ったから此処に来たの。それに抜け出してなんかないわ! ちゃんと鷹に『ちょっと外に出てくる』って言ってきたもの」 「鷹殿は止める間もなく飛び出していった、と言っておりましたぞ」 「……さあ。きっとそれは鷹の気のせいよ」 「殿」 「もー。分かった、勝手に出てきちゃってごめんなさい」 そう言うとはそっぽを向き、団子を一人食べ始めた。機嫌を損ねたようである。 「……いつも言っております通り、此処は城下と言えど必ずしも安心とは言えませぬ。城下へ赴く際は、一言某に」 「もう、分かったってば」 幸村の方へと顔も向けず、は黙々と団子を食べ続けている。何度注意しても、がこうして城を抜け出すことはやめようとしなかった。 寧ろ段々と回数が増えていき、行動もエスカレートしているように見える。行き先は必ず城下やその近辺だということを鷹や幸村も知ってはいるが、幸村はがいなくなる度に心配していた。 心配だからこそ、思わずこうして注意や小言の数が増えてしまうのだ。はその聞き飽きた小言に機嫌を損ねているのだった。 「……幸村は、此処に嫌々来てるんでしょう。私の我が侭に付き合って。……面倒だとか、思ってるでしょう」 機嫌を損ねると同時に、そんな自分に嫌気も差していたはふと呟いた。自分の我が侭な言動がどれだけ皆――特に幸村に迷惑をかけているのか、分かってはいるものの抜け出す回数を減らすことは出来ずにいたのだった。 「某は、姫の家臣でござる。嫌も何も、某は姫を守ることがお館様から受けた命でござる」 「…………(またそうやって、家臣を持ち出すのね)」 彼の口は二言目には『家臣だから』『お館様の命』を発する。これがにとっては嫌で嫌で仕方のないものだった。 元々は性格上か、あまり上下の関係を気にせずに生きてきた。その為兵士や城下の人間とも自然に接する事がきでるのだろう。 そんな性格だからこそ、幸村の『家臣』という態度が嫌であった。彼の真面目な性格も知っていたが、ここまで姫や家臣の関係をはっきりさせずともよいというのがの思いだった。 何度かやめるように口にしてみたものの、幸村のその態度は一向に変わらなかったのだった。 「殿、もうよういだろうか? そろそろ城に戻りましょうぞ」 幸村も心底参った、というように願い出たが、それでもはまだそっぽを向いたままだ。彼女の傍らにあった団子も、いつの間にか串のみとなっていた。 暫く、二人の間に沈黙が流れた。 「……殿」 「…………」 変わらず返事のない。だがそろそろ言葉を返さないと、あの温厚な幸村も怒り出すか、呆れかえって自分を置いて帰ってしまうかもしれないという不安がの心に過ぎった。いずれにせよ、いつまでもこうしているわけにはいかないのだ。 幸村の方へと向き直ろうとしたその時に、肩に温かい重みが降ってきた。触れてみると、それはの羽織りだった。持ってきていない筈の羽織が何故此処に、という疑問を幸村に投げかけようとして顔を上げる。 そこにはの想像していた怒りや呆れを感じている幸村ではなく、少しの笑みを浮かべている彼だった。 「これ……幸村が?」 「鷹殿が持たせてくれたのだ。お身体を冷やされてはいけないということでござろう。春が近いと言えど、陽が沈めば空気も冷たくなりますゆえ」 は肩にかかる羽織をぎゅっと握り締めた。幸村は怒るでもなく、呆れるでもなく、自分のことを本当に心配してこうして身体にも配慮していた。 それが嬉しくて思わず頬が緩んだが、恥ずかしさもあり決して幸村の方は見なかった。少しのぬくもりを感じながら、はこっそりと笑顔を浮かべた。 が度々こうして城から抜け出すのは、いつも迎えに来るのが必ずと言っていい程幸村だからだった。 幸村の家臣としての態度も、城内ではなく外なら無くなるのではないか、という期待を胸にしていた。実際に態度が改まることはなかったが、幸村と二人きりになることは決して居心地が悪いわけではなかったのだ。 そして今日も幸村は迎えに来て、あたたかさを貰った。それだけで今はただ、は満足だった。 「幸村、城に戻ろっか!」 「! 急にどうしたのだ?」 「いいからほら、早く早く!!」 「待ってくだされ、殿!」 素早く羽織りを腕に通すと、は突然駆け出した。勿論、幸村もそれに気づくと少し遅れてを追いかける。まるで鬼ごとのように、二人は川原を駆けると城の方へと向かっていった。 駆けていく時におきた風は、道ある草花を優しく揺らしていった。 TOP → |