「や、やだってば。こんな時に冗談きついって」

誰もが口を閉ざす中、一番に声を発したのはだった。しかし明らかに震えているそれに、の言葉による動揺が現れているように見える。
「新野先生を呼んでくる」と言って静かに部屋から出て行った伊作に気を留めるのも一瞬で、俺はすぐにの方へ目をやっていた。

「冗談とかじゃなくて、」
「俺たちのこと誰かなんて、まるで初対面の時みたいに言ってくれるなよ!」

が何か言おうとするのを遮り、この場には不釣り合いに思う小平太の大きな声が響く。
一年生の時に初めてと会った時、あいつは「あんたたち誰?」という第一声と胡散臭いものを見るような不躾な視線を向けてきたのだ。それから意気投合するまでに時間はかからなかった。
しかし今はどうだろうか。同じ意味合いの言葉だろうが、の表情は酷く真剣でまっすぐだ。あの時とは違う、純粋な疑問を向けているようにしか見えない。

「……私にとっては初対面なんですけど、あなたたちは違うんですね」

少し俯いてから聞こえた独り言のような呟きは、嫌でも俺たちの耳に届いてきた。
当然、隣に座っていたにもそれは聞こえたらしく、ゆっくりとの手に触れる。

「あんた、本当に……私のこと、覚えてないの?」

ようやく絞り出したかのような掠れた声でそう言えば、短くも長い間を置いてからは顔を上げてと視線を合わせた。だがそうしているのも少しの間のみ、すぐに目を逸らしてからまた小さく呟く。

「――ごめん。分からない」

躊躇いながらも声に出した呟きは、俺たちを硬直させるには十分な程の衝撃だった。
だからがいきなりの肩を掴み、強引に顔を向かせるのに反応するのも遅れてしまった。すかさず小平太や文次郎が力ずくでそれの静止にかかる。

「嘘でしょ! そんなの嘘よそうに決まってるっ!!」
落ち着け! お前がそんなに取り乱してどうする!」
「離してよ! だってだってが、が私のこと分かんないって!」

から引き離そうと、それでも叫びながら暴れるのは止めなかった。ばたばたと動く手足に当たらぬように、俺と長次でを部屋の隅に避難させる。
その表情をうかがえば、この状況に一番ついていってないのは本人じゃないかと思った。それくらいに不安げな面持ちで、今まで見たことのないものだったから。

「! ちょっと、何やってんの!?」

戸を開けて入ってきたのは新野先生と、呼びに行くために部屋を出ていた伊作だった。
部屋に入るなり伊作はの元へ寄り宥めようとし、新野先生はこちらに来ての前に向かい合って座った。

さん。あなたは此処にいる私を含めた、全ての人のことが分からないんですか?」
「……分かりません。この人達と私は初対面のはずです」

突き付けられた言葉に、誰もが言葉を失くした。も遂に黙り込み、両腕を掴まれながら顔を酷く項垂れている。

「そうですか。分かりました」
「新野先生、は……」
「善法寺君はみんなを連れて一度部屋の外へ。しっかりと診察してみないと分かりませんから」

俺たちはそれに大人しく従う他なく、今度は伊作も一緒に再び保健室の外に出た。新野先生とのみを部屋に残し、廊下に出た俺たちの間に暫く会話など生まれなかった。
最初はいつものように度の過ぎた冗談だと思った。でもあの真剣な態度に、嘘だろうという言葉は口から出て来なかったのだ。
手当てを待っていた時よりも、ずっと長い間廊下に立っていた気がする。時間にしてみれば同じくらいかもしれないが、それは重い空気をずっしりと伴いながらゆっくりと進んだようにも思えた。
何をするでもなく、特に意味もなく遠くに昇る陽に目をやっていた。もう完全に朝になっている。昨日からもうそんなに経ったのか、とふと思いに耽っているとスッと障子が開いた。中から出てきた新野先生は、後ろ手に開けた戸をしっかりと閉めてから俺たちに向き直った。

「――彼女は今、自分の名前以外には何も覚えてはいないようです。恐らくいなくなっている間に何かあったと考えるのが妥当でしょう」

重たい空気に更に圧力をかけるように、先生の声は深刻さを伺わせた。そしてその内容も、口を開こうとするのも躊躇わせるようなものだった。

「一時的なものかもしれないし、もしかしたらずっと……。とにかく頭に関する病については資料が足りなさすぎる。今はまず、様子を見ていくしかないです」
「……じゃあ、先生、は……治らないんですか?」

ようやく俺たちの中で初めて口を開いた伊作がそう聞けば、新野先生は目を閉じながら唸り、そして伊作を見据えながらまた言った。

「治る方法は、私にも分かりません。経過を見ていくことしか出来ないのが現状でしょう」

今までこんなにも、嘘だということを誰かに訴えかけたくなったのは初めてだ。これは仮にも六年間、共に忍者を目指し学んできた仲間を失ったも同然のことだ。

「……私はこれから、学園長先生に彼女のことを話してきます。先のことは気にせず、今はあなたたちが彼女の傍にいてあげなさい」

黙り込んでしまった俺たちを見て気を使わせてしまったらしく、先生はそう言って廊下を進んで行った。
先生が去った後も、暫くその場から誰も動くことなくただ時間だけが過ぎていった。外からはようやく後輩たちの賑やかな声が聞こえてくる。
「おはよう」聞こえてきた声は、本来ならば今ごろ俺たちの間でも交わされていただろうもの。しかし今、ただ言えることは、嘘だろうという正当化を求める情けの無いものだけだった。



生まれたのは愕然



「おはよー」「おう、はよ」「今日も目つきの悪さが絶好調だな留三郎!」「朝からそれかよ! 生まれつきだっつの」
(あんなに賑やかな朝がもう来ないかと思うと、悔しくなるのは何故だろうか)