忍術学園に来てから早数週間。何度も一年生たちや先生方から注意されたのにも関わらず、私は今こうして穴の中に落ちている。 落とし穴の目印もあるみたいだけど、あいにく先程の私はそれを気にかけられる状況にはなかった。穴の中にも散らばる、洗濯物を沢山抱えていたから。 穴に落ちた時は、苦無とかを指して足場を作り出ることが出来る。そう諸泉さんに聞いたことがある。でもそれは、忍者がすることだ。 もしここに苦無があって、私がある程度訓練を積んでいたとしても、自分から出ようだなんてしてはいけない。だから多分、雑渡さんたちも私に最低限の知識だけを教えてくれたんだろう。今にやってようやくその意味が分かった。 ここは忍者のたまごが集まる場所、誰が私のことを見ているか分からない。苦無一つでも持ってみれば、それだけで―― 「あれ。出れない?」 ほら、こんなふうに、誰かが見ているんだもの。 「あ、うん……見てのとおりです」 「ここら辺には罠ばかりあるけど、目印があるって誰かに聞きませんでしたか?」 「それはちゃんと教えてもらってたの。でもさっきまで洗濯物持ってたから、足元見えなくて」 「ああ。どうりで散らばっているわけだ」 そこまで分かっているのならいちいち聞かないでほしい。 逆光で顔まではよく分からないけれど、生意気な口調や黒には見えない身につけている装束から、彼が忍たまの一人だと分かる。 回りくどい言い方をするところを見ると、彼は状況を分かった上で私をからかうためにわざと聞いてきたにちがいない。いやなやつ。 「なんてだらしない。くの一のくせに」 「……え?」 聞き間違いではなければ、彼は私のことをくの一と言った。 そう言ったことから、私のことを思い切り警戒して完全に“くの一”の間者と捉えていることがうかがえる。 でも私はくの一だなんていう立派なものじゃない。曲者には違いないけど、とんでもなくどんくさいただの胡散臭い女なだけ。そんな私とくの一を一緒にしては、そのくの一を目指すくのたまの子たちの両者にとって失礼だ。 「私がくの一なんて、そんなこと……」 「ああ、もしかして俺たちを油断させるためにわざと穴に落ちたんですか? その隙にでも攻撃をしかけようとか考えてたんでしょう?」 よく見えない彼の方に目をやれば、その口元が緩く孤を描いているように見えた。 そもそも危害を加えたくても、私は雑渡さんに忍術学園の生徒に危害を加えないこと、と言われているから攻撃なんか出来るわけがない。やりきれない思いや彼の口ぶりが重なり、私のイライラは次第に増していくばかりだ。 「ちょっと、いい加減なこと言わないでくれるかな」 「おお怖い怖い。そんなに睨まないでくださいよ」 「ふざけないで! 私のことを怪しむのは無理もないことだから、そうやってからかうのは勝手にしていい。でも、この洗濯物はおばちゃんに頼まれたことなの。早く片付けて次の手伝いもしたいの」 苛立ちが思わず出てしまい、さっきより声を荒げて上に向かって叫んだ。洗濯物は自分からすすんで引き受けた仕事だけど、早く片付けないと他の手伝いが出来ないのは事実だ。 「だからお願い、ここから出るのを手伝ってほしいの! 縄か何かを垂らしてくれるだけでもいいから!」 思ったより大きな声を出してしまったようで、穴の中で自分の声が響く。これなら上にいる彼の耳にも届いたはず。 暫くの間があり、空を飛ぶ鳥の鳴き声が小さく聞こえた。 「ねえ、聞いてる?」 「……自分が怪しいのを認めるのも策の一つ、か」 痺れを切らしてもう一度声を上げれば、声が聞こえたような気がしたけどあまりに小さいものだから聞きとれなかった。 けどそんなことに気を留める間もなく、急に上から注いでいた光が無くなったのに驚いた。そうしていた直後、目の前に一本の縄が垂れてきた。 「っ、これ、」 「そっから出たいんでしょ? 手間を取らせないでくださいよ」 生意気な口ぶりは相変わらずでも、確かに彼は縄を持ち反対側をこちらに垂らしてくれているようだ。 私は洗濯物を懐に仕舞い、縄をしっかりと握った。引っ張り上げてくれる力を借りて、穴の壁にかける足に力をいれながら、必死に上がろうとする。 もうすぐで出られる、というところで片方の手が強い力でひっぱられ、ようやく外に上がることが出来た。 案外な体力を使ったことで思わずはあ、と溜め息がでたところで、ようやく彼の方へと向き直る。 「あの、助けてくれてありがとう」 「……いいえ。ここで助けなければ、後で私が雷蔵から怒られてしまいそうだから」 隣に座り込んでいる彼にお礼を言うと、そう返された。 「でも助かったのは本当だから。えっと……」 「鉢屋です。鉢屋三郎。ちゃんと俺の顔と名前、覚えておいてくださいね。お姉サン」 続かなかった言葉に気がついてくれた彼は、ニヒルな笑みを浮かべながら言う。鉢屋君、紺色の装束を纏う、掴みどころのない男の子。 最後の名前の呼び方にも少しひっかかったけど、とにかく印象を更に悪くしたようには感じない。正直に自分が怪しいものです、なんてことを言ったのがよかったのかもしれない。 「……えっと、鉢屋君。そろそろ手を離してくれると嬉しいかな。洗濯物拾いたいし」 「ああ。つい癖で」 手を握る癖ってなんだよ、と心の内で怪訝さを露わにするも伝わるわけなく、なぜか手は未だに掴まれたままだ。 「鉢屋君?」 「……へえ。じゃあさん、今度は手の傷を綺麗にする方法を教えてくださいね? 俺、変装術には目がないもので」 「は? 一体何言って、」 依然として掴まれた手を触られたり、見られたりした後、パッとそれを離したかと思うと鉢屋君はすぐに立ち上がった。 言っている意味が分からず聞こうとするも、彼は颯爽と立ち去って行ってしまった。残されたのは大きな落とし穴と、座り込んでいる私と、散乱する汚れた洗濯物たちだけ。 最後までとことん変なやつだった、と鉢屋君のことを思いながら、私は洗濯物を集めることに専念した。ああ、もう一度洗濯しなくては。 少年はいつまでも目を逸らさずに 「雷蔵聞いてくれよ。本当におかしい女だったよ。自分で怪しいことを認めているし、とことんくの一だと認めようとしない。ますます怪しいじゃないか。でもあのどんくささは演技にしては上手いだろうよ。え、穴から出したか? 当たり前だろう、私はそこまで非情ではないよ。しかしそれがまた良かったのかもしれないな。え? それがだな、手を掴んだんだよ。彼女の掌は、本当に綺麗なものだったよ。くの一ならあるだろう傷すら隠す、その技術だけは興味が惹かれるね。ああ、本当に楽しかったよ。今度は雷蔵も一緒に会いに行かないか? 次はその技術を教え乞う約束もつけたんだ」 ――『あの手は作りもの、そう思わなければいけないのだ』 ――私の本能がそう告げる。 ――手は、その人の生きた証。 ――傷一つないその手は、この世界を渡世したとは言い難いものだった。 ――人を殺すことも出来無さそうな、あの弱い女が恐ろしいのではない。 ――彼女のうしろにある想像もし得ない“何か”の存在が、 ――とても恐ろしくて堪らなくなる。 ――雷蔵の顔の下に隠れているのは、いつも何かに脅える情けない私の顔だ。 ――(彼女はこの世界の人間ではないのだ) ――その事実を受け入れたくないから、私は彼女を受け入れない。 ――怖いものから遠ざかる、ただそれだけのことさ。 |