ミンミンと鳴り続ける蝉の声。じっとりとまとわりつく髪。浮き出てくる汗。 けれどそれを全て遮断する一瞬、それが弓を射る時だ。 弓を放つその瞬間だけは、夏のうだるような暑さも、うっとおしい汗も、忘れることが出来る。 早朝だというのにこの暑さでは、きっと午後の練習の時には道場は更なる熱気に包まれるに違いない。汗を拭きながら、午後のことを考えて少し憂鬱になった。 「さん、お疲れ様」 「……部長」 この夏から正式に部長となった金久保先輩には、今日も朝練をお願いしていた。 インターハイも近いので、私は以前にも増して練習に力を入れるようになっていた。 「そろそろ終わりにしようか。あまり無理すると、この暑さだと体調を崩すかもしれないし」 「……分かりました。でも、あと1回だけ」 「そっか。じゃあ終わったら着替えておいで。僕はちょっと更衣室に忘れ物を取りに行ってくるから」 「はい」 先輩が道場を一度出ていったところで、私はもう一度構えを始める。 この暑さの中でも集中して弓を引くことが出来なければ、インターハイ本番で皆中を狙うことなど不可能だ。 まっすぐ前を見据え、先にある的に意識を集中させる。当てるのでなく、弓をあの的に届けようと意識して、弓を引く―― さっきと同じように集中したはずなのに、手が震え、視界がぐらりと傾いた。正そうとしたその前に震える手は弓を放ち、そのまま弓は鈍い音を立てて地面へと突き刺さった。 暑さで集中が切れてしまったのだろうかと、悔しい気持ちからもう一度弓を持とうとした。けれどちょうど金久保先輩が更衣室から戻ってきてしまい、朝練はそこで終わりとなってしまった。 ◇ 朝に予想した通り、午後の練習はうだるような暑さの中で行われた。 日の沈みが遅いため、まだまだ太陽は地面を照りつけており、蝉もみんみんと鳴り続けている。 けれどそんなことに構っているわけにもいかず、弓道部員たちは皆練習に励んでいる。私も朝練の時の失敗を埋めるべく、いつも以上に熱を入れて弓を引いていた。 「――い、おい、」 「……え」 「休憩だぞ。少し休め」 「あ、うん」 耳元から聞こえた声にハッとして振り向けば、そこには宮地君がいた。いつの間にか休憩時間になったようだ。全く気付かなかった。 「……、顔色が悪いぞ。しばらく休んだ方がいいんじゃないか?」 「――別に、大丈夫」 「しかし、」 宮地君の言葉を遮るようにして彼の横を通り過ぎた。弓を立てかけて、腰を落ち着かせる。ひんやりとした床や壁が気持ち良い。ふぅ、と一息つきながら汗を拭った。思ったよりも汗をかいておらず、身体もそこまで熱くなっていない。調子が良いのかとも思ったけれど、今朝のことを考えるときっと真逆なんだろう。座ってから頭がずきずきと痛むのだ。 「だから――って、あはは!」 「もう、それは――で」 「ははは!」 うるさい、なぁ。 休憩中だから仕方ないだろうけど、少し大きい笑い声は私の頭にずきずきと響く。 「ははは!――やめろって、」 「――だから、」 「ほら、――じゃあ……」 うるさい、お願いだから、少し静かにしてて。 「――い、おい、」 ゆさゆさ、と身体を揺すられて私はまたハッとした。 どこでもないところを見ていた目は、揺すったであろう当人の姿をぼんやりと映した。 「みやじ、くん」 「そんなところで休むのなら、保健室に行け。今日はもういいから」 「休憩、終わり?」 「ああ。だけどお前はもう帰れ」 どうして、という言葉は喉につかえて声には出なかった。宮地君の真剣な顔に、一瞬だけ怯んだから。 視線を宮地君からはずせば、彼の後ろにはこちらを窺う金久保先輩や他の部員たちの顔も見えた。夜久さんも、不安そうな顔でこちらを見ている。 「大丈夫、だから、」 そう言いながら立ち上がろうとすると、身体が言うことを聞かず後ろに倒れそうになる。咄嗟に壁に手をついて衝撃は免れたけれど、宮地君はその様子を見て眉間の皺を深くした。 「そんな状態で何を言っているんだ。いい加減意地を張るのはやめろ」 「意地なんて……」 「はっきり言って、自分の体調も管理出来ていないまま部活をするのは迷惑だ」 「ちょっ、宮地君!」 「おい宮地、言いすぎじゃねーの?」 ぐるぐると、言われた言葉が頭の中で回っている。 意地を張っているのだって、迷惑になるのだって、私が一番知っている。体調が悪いことだって、気付きたくなかっただけでほんとは分かってた。 それでも、練習をしないではいられなかった。だって、 「さん、大丈夫?」 ふいに伸ばされたその手を、反射的に払ってしまった。パシン、と渇いた音が弓道場に響いた。しまった、と思った時にはすでに遅く、おそるおそる顔をあげれば驚いた顔をした夜久さんが、払われた手をまだ浮かせていた。 それを見て私は、ふらつく足を叱咤して唖然とする彼らの横を走り、道場の外へと飛び出した。「!」と叫んでくる宮地君の声は、聞こえないフリをした。 だんだんと辛くなる呼吸を耳にしながら、私はどこに行くでもなく、必死に足を動かした。 夜久さんの手を、払ってしまった。何も悪いことはしていないのに、その手を無下にした。きっと皆は私に幻滅した。もう部活にはいられなくなってしまうかもしれない。もしかしたら、もう弓道が出来ないかもしれない。弓が、ひけなくなるかもしれない? そう思った途端、さっきまで動いていた足は鉛のように重く感じ、自然と止まった。はぁはぁと短い呼吸を繰り返す。ドクドクと心臓が脈打つのがやけに大きく聞こえた。 入学してから、色々なことを“諦めた”。 でも、星と弓のことだけは、せめて弓だけはと、諦めきれずに頑張ったのに。ようやく、弓が引けるようになったのに。 いくら体調が悪くても、部活を休むことは嫌だった。練習をしないなんてことが、嫌だった。だって、 「……っ、諦めたく、なかったのに……っ!!」 ぽろり、と零れた涙は白い道着をひたひたと濡らしていた。 |