つい先日まで咲き誇っていた桜の花も、今ではもうほとんどが散ってしまい、新緑が風に乗って揺れている。
半分ほど開いている廊下の窓の向こうに見える、そんな景色に夏を間近に感じながら、僕は職員室に向かう足を進めた。
夏の大会に向けて、部長と考えた新しい練習メニューを顧問の陽日先生に見せるためだ。
本来ならば部長が行くのだけれど、あいにく部長は他の用事があり、僕がその役目を請け負った。そんなに難しいことではないから、快く引き受けたことだった。

「あ、陽日先生」
「おー金久保! どうした?」

そこでちょうど、職員室から出てきた陽日先生を見かけた。すかさず声をかけ、先生もそれに気付いてこちらに歩み寄ってくる。

「ちょうどよかったです。これ、部長から預かった夏からの練習メニューです」
「ああ、出来たのか! どれどれ」
「何かアドバイスがあれば聞いてくるよう、頼まれました」
「ん〜でもいつもお前たちの考えるメニューはちゃんとしてるからなあ。俺はこれでいいと思うぞ!」

僕から受け取ったメニュー表を一通り見終えると、陽日先生は納得した様子だ。
いつも色々なことを僕たちに一任し、そのためほとんど部活に顔を見せない先生。自主性を重んじてくれるのはいいけれど、たまには部活での様子を見て、それに合わせた練習メニューへのアドバイスなどもらえたらいいのに。なんて、期待してても先生はなかなかに忙しいから都合がつかないのだろう。そう一人で納得をし、僕は苦笑を隠せないまま差し出されたメニュー表を受け取った。

「あの、お話の途中、失礼します」

後ろから聞こえてきた声は、この学園では珍しいソプラノ。
振り返ると、春に弓道部に新たに入部した女子部員の一人、さんだった。

「お話が終わってからでいいので、陽日先生。少しお時間いただけますか」
「俺? もうだいたいの話は終わったからいいぞー」
「……あっ。じゃあ僕は先に失礼します。さん、また部活でね」

メニューを見せるという目的は果たしたのだし、この場に残ってさんの話を聞くわけにはいかない。僕は簡単に挨拶をして、すぐにその場を立ち去ろうとした。

「いえ。私の話もすぐに終わります、それに……弓道場についての、お願いなのですが」
「えっ?」

引きとめられるとは思いもよらず、けれど弓道場についての話と聞いて僕は言われたがままに足をその場に留めた。
陽日先生も一体何の話かと、おなじように疑問符をさんに投げかけていた。

「……週に、数日でいいんです。朝に、弓道場で練習させてもらえないでしょうか」

僕はまた疑問符を浮かべることになった。
まだ入部してから2カ月余り、新入部員は基礎的な練習を行っている。それはさんも例外ではなく、基礎体力作りに弓を引くためのゴム引き、実際に弓を引くにはまだまだ時間が必要だ。
ただでさえ放課後の練習だって慣れないうちで大変なのに、これ以上練習量を増やしたら身体を壊しかねない。どうしてそんなにまでして弓を引きたいのか、僕の疑問は消えることはない。

「えっとだな、つまりそれは朝練したいってことだよな?」
「はい」

それは陽日先生も同じようで、一生懸命にさんから理由を聞こうと少し困っている。

「もっと練習して、早く弓を引けるようになりたいのかな?」
「……それもあります、けど」

ふ、と俯きながら言葉に詰まるさん。
きっと早く上達したい、という気持ちももちろんあるのだろう。けれど、それよりももっと大きな目的がある、ように見えた。

「んー、弓道場を使うのはいいんだけどな。一人でっていうのが……」
「鍵の管理でしたら、私が責任を持って」
「いやいやそういうことじゃなくて! お前、女子が一人で行動するっていうのは、この学園ではあまり好まれたものじゃないぞ? 分かってるだろ」
「は? 夜久さんならまだしも、私なんかが歩いてても誰も見向きもしませんよ」
「だーっ! 分かってねえ!」
「?」

髪をガシガシと掻きながら喚く陽日先生に、今度はさんが疑問符を浮かべる。
僕も陽日先生と同じ意見だ。ほとんど男しかいない学園内で、早朝とは言えど女の子が一人で歩き回るのはあまりにも危ない。何かがあってからでは遅いんだ。

「陽日先生、僕も一緒に朝練に参加します。それなら問題ないでしょう?」
「!?」
「おお、金久保が一緒なら問題ないな! 、金久保と一緒だったらいいぞ!」

我ながら名案だ、と思いながら提案したものは陽日先生には納得してもらえたようだ。
それならさんが危ない目にあうこともないし、僕が弓を教えてあげることだって出来る。僕自身の練習にもなるし、一石三鳥と言える。

「そんな、金久保先輩に迷惑かけるわけには、」
「僕は別に構わないよ。それに、僕がいないと道場は貸してもらえないよ?」
「う、」

頑なに断る姿勢を取っていたようだけれど、僕の一言でそれは一変し言葉に詰まるさん。痛いところをつかれた、と言った様子だろう。

「ね? 決まり」
「……よろしく、お願いします」
「ということですので、陽日先生」
「おう! 鍵はいつものところから取っていってくれ。いや〜こんなに練習熱心な部員を持って、俺は幸せだぞ!」

とても嬉しそうに笑顔を浮かべる陽日先生に対し、さんはあまり納得しきれていない様子で、それが顔に全部出てしまっている。対照的な二人を見てると、失礼だけれど少し面白いと思った。

「では、私はこれで」
「また放課後、部活でね」

律義に一礼してから、さんはその場を去った。残された僕と陽日先生の間には少しの沈黙が流れる。まさかの申し出に少なからず驚いたものの、彼女の弓道やそれに関わる時間への執着が垣間見えたとも思う。
もっとも、その全てが弓道に向けられているものとは、あの俯いた時の表情を見た時に違うんだな、とは感じた。

、早く弓道の楽しさに気付けばいいな」
「……そう、ですね」

見ていないようで、よく見ている人だなと思う。
先生も、きっとさんが弓道を個人競技としか見ていないことに気付いている。それに、他の人と中々打ち解けようとしない、壁を作っているということも、きっと。

「金久保。を、頼んだぞ」

先ほどの笑顔とは打って変わり、まっすぐに視線を向けてくる陽日先生に、僕は力強く頷いた。

「僕は、さんの先輩であり、仲間ですから」

早くさんにもそのことが伝わればいい、そう想いをこめて。