早朝の道場の空気は、今が夏であることを忘れてしまうくらいに澄み切っていて、涼しい。
ピンと張りつめた空気の中で弓を射る瞬間が、私は堪らなく好きだ。

――パァン!

一斉に耳に届く、矢が的を射る音が心地良い。
弓道というものがこんなにも楽しく、気持ちの良いスポーツであるなんて知らなかった。
そもそもこれまで、こんなにも一所懸命にものごとに打ち込むことなどなかったから、当たり前と言えば当たり前かもしれない。
矢を真ん中に当てるにはまだまだ練習が必要だろうけど、矢が的に当たったことが今は何よりも嬉しい。

「張り切っているんだな」

集中していたせいで、彼が入ってきたことに気付かなかった。
驚いて声のする方を振り向けば、同じクラスで同じ弓道部部員の宮地くんが腕を組みながらこちらを見ていた。どうやら今まで見られていたようだ。
しかし一体何故、この時間に彼が弓道場にいるのだろうか。

「……どうして」
「俺も負けてられないからな」

そう言いながら、宮地君は自分の矢を取りだし射場に立った。
弓を構え、的を一直線に見据えるその射形は、やはり綺麗だ。宮地君の射形を初めて見た時のあの感覚が蘇り、どくどくと胸が高鳴り肌が泡立つのを覚えた。
射場に差し込む朝焼けの光を浴びる、堂々と構えるその姿は、床に映る影までもが彼の情熱を映し出しているようだ。

――パァン!

的中。
力強いその矢は、一寸の迷いもなく的の真ん中付近目がけて飛んでいき、突き刺さる。

「……相変わらず、迷いのない矢だね」

ぽつり、と。羨望のこもった呟きは、思ったよりも道場内に大きく響いた。それを聞き逃さない宮地君は、構えを解いてからこちらに目を向けた。

「どうして一人で練習していたんだ? 大会に向けた練習なら、俺にも声を掛けてくれてもいいんじゃないか」
「個人的にもっと練習したかっただけ。宮地君には必要ないでしょう、その腕なら」
「俺だけじゃない。犬飼や白鳥や――それに夜久だって、」
「っ、一人で練習するのがそんなにいけない? そんなの私の勝手でしょ!」

それまで抑えていた疑問や苛立ちは、彼の口から出た名前によって思わぬ形でぶつけてしまった。
これではただの意地っ張りだ。自分でもまずいと思い早口にごめん、と謝罪をして道具の片づけを始める。もうこれ以上練習などしてはいられない。

「おい、帰るのか?」
「……早くしないとホームルームに間に合わないよ」

いつもなら丁寧に入れている弓や道具も、荒々しく仕舞込み一刻も早くこの場から立ち去るための準備を進めた。
そんな私の背中には、その様子を見る痛いくらいの視線が突き刺さる。本当に、彼は一体何がしたいのか。そもそもこの時間にこの場所にいること自体おかしい。
だって、ここは私が頼み込んで開けてもらって――

「……まさか、」

私が口を開いたのと同時に、再び道場の扉が開く音がした。

「あれ、さん。もう帰るの?」
「金久保先輩」
「……はい。もう行かないとホームルームに間に合わないので」

弓や道具を仕舞った鞄や袋を肩にかけ、私は足早に金久保先輩のいる扉の方に向かう。
そして出る前に、先輩の正面で立ち止まり柔和な笑みを浮かべる顔を、あえて睨みを利かせて見上げた。

「それと、他の人に余計なこと言うのやめてくれませんか。練習場を貸していただき、先輩にも毎朝付き合ってもらっていることには感謝しています。でも、それとこれとは別です。私は一人で、練習したいんです」
「……ごめんね、さん。でも弓道は個人競技でもあり、団体競技でもあって、」
「おねがい、します」
「……うん。分かった。練習の邪魔をして、ごめんね」
「いえ、こちらこそ我まま言ってすみません。それでは」
「うん。また放課後に」

無理矢理だけれど先輩の言い分を言いくるめ、私の無茶を押し通した。これでもう、これ以上「この時間」――私が一人で練習出来る時間のことを、他の人に知られる心配もないだろう。
先輩に一礼し、宮地君にも一瞥してから私は道場を後にし、更衣室へと向かった。



が道場から出ていった後、その場には少しの沈黙が流れた。しかしその空気を破ったのは金久保先輩のため息とともに吐き出された呟きだった。

「余計なこと、か」
「……きっと意地を張っているだけです。あまり気にしない方がいいですよ」
「ふふ、そうだね。まだあまり、心を開こうとはしてないみたいだね」

心配そうに扉の方へと目をやる金久保先輩と、俺も同じようにしてそちらに目をやった。
入部してからあの態度は変わることはなく、寧ろ悪化しているようにも思う。人を寄せ付けようとしない、必ず一線を引いたような態度。一線というよりも、分厚い壁を作っていると言った方が妥当だろう。

「せっかく朝早くに来てくれたのに、ごめんね」
「いえ、朝から練習出来るいい機会になりました。それに、のことも」
「……彼女はああ言ってるけど、これからもたまに来てくれないかな? やっぱり一人で練習するより、お互いにライバルがいた方が練習にも身が入るだろうし」
「はい。分かりました」

金久保先輩に言われなくても、俺はこれからも朝の弓道場に行こうと思っていた。
最初、部長から「さんが一人で練習している。よければ来てほしい」と言われた時は一体どういうことかと思ったが、実際にが一人で弓を引く姿を見てその意図を理解した。
自分のためだけに弓を引いている、その姿はあまりにも頼りなかった。弓道を個人競技としてしか捉えてない様子は、つい最近までの自分を見ているようで思わず目をそらしたくなったくらいだ。
しかしそれを分かって、部長は俺にこのことを伝えたんだろう。俺は目をそらすことなく、が弓を引く姿を見ていた。

「まだ時間はあるし、ゆっくり打ち解けていけばいいよ」
「……そう、ですね」

弓道の本当の楽しさを知るためにも、仲間を作ることも大切なんだぞ。今この場にはいないに向かって、俺は心の内で呟いた。