※捏造武田家や病気にかかる偽黒幸村です。ご注意ください。 季節が変わりゆくにつれて咲く花は、また季節が変わればその花弁を地に落とし枯れ朽ちる。まるでそれらの花のように、甲斐の勢力は花弁の如くひらりひらりと散り果てていった。 上杉謙信の好敵手であるお館様こと武田信玄は、謙信公と川中島での合戦を交えその勢いを上洛への夢へと向け、強大な力で武田の軍を引き連れていた。しかしお館様は上洛の夢半ばにて病死、そしてその後を追うかのようにして謙信公も亡くなった。 こうして甲斐と越後を治めていた偉大なる武将二人を失い、それを好機とした他国の武将が何度もこの地へと攻め込んでくる日が続いた。お館様亡き後にその跡を継いだ勝頼殿は、甲斐の存亡を懸けて奮闘はしているものの、やはりお館様との姿を比べてしまうと劣っているのが明らかだった。そう感じる家臣らも多い為か、今や武田軍内での分裂が激化の一途を辿っている。武田に信頼の置けない者は他軍に寝返ったり、甲斐すら去っていくのもいた。それ程までに今や武田は脆く、かつての勢いすら何処にも見えなかった。 こうなって改めて、俺はお館様の偉大なる力や魅力を痛感したのだった。きっと武田はお館様あってこそ、何処にも屈せぬ強さを維持出来たのだろう。――過去を思い返したとて、今をどうにかすることなど出来ぬというのに。 俺や佐助は、変わらずに勝頼殿と共にいた。生前お館様から学んだ兵法を活かし、なんとか俺たちは甲斐を守って生きることが出来たのだ。槍を奮い、何人もの兵や武将を手にかけた。浴びるように血を受け、眠りにつこうとすれば殺した者らの姿が脳裏に浮かんだ。 (俺はもう戦場でしか生きられないのだ、人を殺して生きていくしかないのだ。) お館様の死後から俺は変わったと、以前佐助に言われたことがあった。しかしこれが俺の真に生きる道と、死にゆく時それは戦場、そう思いここまで生きてきたというのに。 今俺は、何処にいる?何故戦場にすらいない?本丸からも遠く遠くにあるこの小さい離れに、一人寝込んでいるのは、何故か。 医者は労咳と告げた。流行り病の一つだと言う。 菌が肺へと入りそこから徐々に身体を蝕んでいき、最期には血が出て呼吸すら出来なくなり死に至るというもの。治療の方法は無く、薬も咳や吐血をほんのわずかに抑える為のものしかない。 これは咳をすれば菌が外に出て、その菌が風を伝い様々な者へと病を移すらしい。それゆえに俺は今、こうして離れに一人でいるということになる。なんという、貧弱な。 『虎の若子』『紅蓮の鬼』と恐れられていた俺は、一体何処へと消え去っていったのか。戦場で死ぬという俺の願いすら、消え去っていった。絶望や空虚を抱え、どれくらいだろうか、この離れに移り住んでからは。 食事や薬を運ぶのは、主に佐助が行っている。といっても俺は暫くあいつの顔すら見ていない。忍だから、などと言って何度か中に入ろうとしてきたのを、必死に止めたのは初めの頃だったか。その後に俺は、初めて口から血を吐いた。咳が止まらず、喉からはひゅうひゅうと風のような音しか出なかった。 (ああ、俺は死ぬのだな) 無気力だった。これまでの自分とは思えぬ程に、俺は何をするでもなく、ただ一日一日自分が死に向かっていくのを感じながらこの離れにいた。誰とも相見えず、ただ一人で死んでいくことを感じながら。 「……幸村。幸村、」 小さく、本当に小さく、まるで鈴の音が鳴ったような、そんな声がした。この離れのように静まりかえっていなければ、きっと聞こえなかったであろうその声は。 「……何故、来たのだ」 「今日は私が食事を持ってきたの。幸村、最近食べていないでしょう。だから、」 「何故、佐助に持ってこさせなんだ。それはあいつの仕事だ」 「……ごめん、なさい。でも、どうしても、話したくて……」 まただ、と思った。 佐助ですら身を引いたというのに、必死に拒絶を図ろうといくら酷い言葉を投げつけようとも、この者はたびたび此処を訪れてくる。俺に近づけば病がその細い身体を蝕んでゆくことを、全くもって分かっていないのだ。 「食事はもうよい。下がるのだ」 「……嫌」 「…………」 「幸村、何か口にした方がいいわ。ほら、今日は食べやすいように粥を」 「下がれと言っているだろう!!」 まだ穏やかな口調のうちに下がればよかったものの、俺の苛立たしさは早くも限界に達していた。強くそう叫べば、向こう側に見える小さな影が少したじろいだような気がした。 武田の姫に向かってこのような口を聞くのは無礼にも程があるが、今となればそれを咎める者もいない。衰退した武田に未だに残るを、誰もが疎み蔑んでいるのだと佐助が零したことがある。確かに同盟の道具になり得るその身を、他国に嫁ぐことも出家することもなく、なおも今武田に置いているのは戦国の世としては有り得ないこと。とうに歳も半ばを超え、そんな彼女の嫁ぎ先などもうないのだろうに。 使い勝手のない彼女はただの置物に過ぎず、それすら勝頼殿にとっては疎ましくて仕方のない存在。恐らく聡い彼女のこと、それも分かっているだろうに、何故にまだ武田にそれもこのような離れに足を運ぶのか。全く分からぬ、女子だ。 「っ、げほっ、ぐ、がはっ!」 「! 幸村、」 「来るなっ!! っう、」 ああ、これだけで肺が締め付けられる。呼吸すら苦しく、咳が出る。 彼女が障子に手をかけたのを端に捉えると、また叫ぶ。そしてまた、苦しくなる。 枕元にあった水差しと薬を手にし、口から溢れるくらいに水を含む。薬を流しいれて飲み込もうとするも、これが苦しく中々うまくいかない。なんとか飲み込むと、少しずつ呼吸が楽になっていくのを感じる。 そうして呼吸が落ち着くと、俺は再び向こうへいる彼女へと言葉を向けた。 「……分かっただろう、某はもう以前のような『幸村』とは違うのだ。すぐにこの離れから去れ」 この病に蝕まれた身体も、血に汚れた手も、醜く歪んだ心も、全てが以前とは違う。もう他より『虎の若子』などと恐れられることもなかろう、弱り切った身体に衰えた筋肉。二槍を奮う力など、とうに失われたもの。 「私、は……どんな貴方でも、それが幸村だと知っている。例え病にかかろうが、貴方が幸村であることに変わりはないわ」 「戯言を。そなたは知らぬ、某が本当はどのような男かなどと。分かってなるものか」 「――馬鹿にしないで頂戴、何年一緒にいたと思っているの」 珍しく怒りを含んだ口調で、それも単調に続ける彼女。そうか、これも時が経った証拠なのだな。いつか言葉を交えた時は、少し指摘をしてしまえばうろたえていたものの、今はこうして返してきた。言われているだけでは駄目なのだと、彼女なりに外で学んだのだろう。 されどそんなことは至極、どうでもよいことだ。 「某がそなたと共にいた時間、今思えば無駄としか考えられぬな」 「……え」 「そのような時間があればひたすらに鍛錬を積み、お館様の為にと功績をより多くあげていたことだろう。そうすれば武田もここまで衰退することはなかった」 「何、言ってるの、幸村」 声が震えている。早く去れ、そうしなければそなたのその脆い心はあっという間に崩れ落ちてしまうのだぞ。 向こうにある小さな影を見ないようにと、俺は障子に背を向けて再び口を開く。 「そなたが鍛錬中にも関わらず茶菓子などを持って、無理やりに休みを取らせなければ。ああそうか、某がお館様の大事な娘であるそなたに逆らえぬと知りながら、まるで脅すようにお館様の前で連れ出してみせたのだな。恐ろしい女子だ」 「そ、んな……、違うわ! それに幸村、貴方だって喜んで菓子を食べてくれたじゃない。ほら、よく私が作った団子も美味だと言って」 「あれを真の言葉と捉えたのか? 顔のみならず頭の中まで阿呆に出来ているのだな。あれくらいの嘘すらも見抜けぬ愚か者などと、某は今の今まで知らなんだ」 「……ど、して……そんなこと、」 「言ったであろう。某はもう以前のような『幸村』ではないと。以前のように偽りの自分を装いそなたと話すことなど、到底出来ぬ」 震えが一層に酷くなる。もう涙しただろうか、あの大きな黒い瞳いっぱいにそれを溜めて、今にも溢れてきそうな程に。そうして耐えきれずに涙は柔らかな頬を伝い、床に落ちる。床に落ちる前に拭うことなど、今の俺には許されぬ行為だった。 「去れ。次はない。もしもう一度でも某に言わせてみろ、この短刀でそなたの首を切ってその口を黙らせてやろう。それくらいの力ならまだ残っている」 「……っ、幸村は……私を殺したりなんか……っ」 「武田の姫として何処にも嫁がず出家もせず、ただの荷物になっているそなたを、そして某の時間を奪い取ったそなたを、某はいとも簡単に切ってみせようぞ。役立たずの武田の姫がいなくなろうと、今やその存在価値も見出せないのだ、誰も困るまい。寧ろ感謝されるだろう」 彼女からは何も返ってこない。微かに聞こえるのは、息を引き攣らせているような音。 もうこれだけ残忍な言葉を投げつければ、彼女ももう此処へは来るまい。今までで、否、生きてきた中でも一番の、聞いているだけでも耳を塞ぎたくなる様な、とても酷い言葉だった。 もしも俺が本当に殺すなら、彼女のあの白く細い首に刃をたていとも簡単に紅を見るに違いない。そうして彼女は苦しみながらも徐々に空気を失い、果てる。――想像をした自分は、心底愚かだと思った。 どす黒い感情や思考がぐるぐると頭の中を回る中、俺は彼女の気配がなくなるのをじっと待った。早く去れ、早く、そう強く思いながら。 「――ヒュウッ、」 風の吹くような、音がした。 「がっ、っうっ!げほっ、げほっ、っひゅう、」 そのあとすぐに、向こう側からは激しく咳き込む音と、また風の吹くような音。そうしてがたりと大きな音がした。思わず振り向けば、障子の向こうに見えていたあの影が消えていた。 あの音は何度も聞いたことのある、否聞いたことがあるなんてものではない。俺の――発作と、同じ。 「如何した!?」 「う、ゆき、っげほ、ぐっ、がはっ! た、す……」 障子の近くまで駆けよれば、すぐ向こうから彼女の声が切れ切れに聞こえた。開けるのは躊躇われた、しかし本丸から遠く離れた此処には今、俺しかいない。 枕元にあった薬と水差しを咄嗟に掴み、勢いよく障子を開けた。足元には、顔を青白くして咳き込む彼女がいた。 「しっかりするのだ! 落ち着いて呼吸をすればいずれ、」 「ゆ、き……うっ、げほっ!」 「喋るな! 咳を抑える薬がある、すぐに飲むのだ!」 彼女を身体を抱き起こせば、触れた肩の薄さや腕の細さ、そして何よりもその軽さに驚きを隠せない。記憶にある彼女のふっくらとした頬など今の彼女には無く、頬はげっそりと痩せこけている。 辛そうに顔を顰めながら咳き込めば、俺は薬を勧める。けれど彼女は身体を動かすこともままならず、ただ嫌な音の咳をするだけだ。 「……っ、わた、し、ね……分かって、る……から……」 「だから喋るなと」 「ほん、とは……あんな酷い、こと……思っても、ない、んでしょ……?」 「!」 少し咳が治まったかと思い薬を飲まそうとするが、それは彼女の言葉で遮られた。今まで吐き捨ててきた数々の酷い言葉を、彼女は嘘だと言うのだ。 一瞬、何を言われたのか分からなくなった。 「わたし、を……遠ざけて、病が、うつ、らないよ、にあんな、酷い……っう、げほっ! ごほっ!」 「もう喋るなと言っているだろう!」 「で、も……ごめ、うつっちゃった、ね……せっかく、ゆき、むら……も、辛かった、のに……っ」 「何を申すのだ、俺は…、何も…っ!」 かなり辛いであるだろうに、それでも彼女は弱弱しくだが口元に笑みを浮かべ、そして謝罪の言葉を紡いだ。病にかかったのはそなたのせいではない、と言いたくても、言葉が喉に詰まってどうしても出てこない。もどかしさと悔しさに、強く唇を噛みしめる。 「ゆ、き、むらに……ね、どうして、も言いたいこと、あって」 なおも話そうとする彼女に、俺はもう「喋るな」とすら言えなかった。ゆっくりと繋がれる言葉を、静かに待つ。 「……ずっと、ずっ、と…よ、あなた、が……す、きだっ、かはっ!」 「!! もうよい、もうよい!」 その言葉よりも、その言葉を繋いだ彼女の口から血痰が出たことに驚いた。ここまで身体を蝕まれるなど、恐らく彼女は随分前から病がうつっていたのだろう。けれどそれでも、何故俺の元へと、病が悪化するしかない場所へとやってきたのだ。 (好きという言葉が、真ならば) まさか彼女が、などとは考えたこともなかった。俺が奥深くへと仕舞い込んだこの感情を、表へと決して出さぬようにとあのような酷な言葉を吐いたというのに。彼女の名前さえ、口にしてしまえばそれが崩れてしまう気がしてならず、そして記憶に淡く残る彼女を思い出してしまいそうで。そこで俺は初めて、もう一つ別の病にかかっていたことを知ったのだ。 「……すまぬ、すまなかった、あのような言葉をそなたに向けるなど……! 俺は、俺はっ……これ以上、そなたが近づいてきてしまうと思うと、あのようなことしか……!」 「げほっ! ……う、れしい……わ、ゆ、……き……げほっ、ごほっ」 「とにかく薬を飲むのだ、頼む……!」 言い訳がましい御託を並べる俺にでも、彼女は弱弱しく微笑んでくれた。それがどれだけ、救いとなるかきっと知らないだろう。けれど顔色は元々悪いものが更に悪くなり、声すら掠れている。このままでは、 「……おい、おいっ! しっかりするのだ!」 死んでしまう、と思った刹那、彼女の息をする音が聞こえなくなった。 「――っ! 誰かおらぬのか! 姫が倒れた!! 息もしておらぬ!」 自分も病にかかっていることすら忘れ、俺は無我夢中で叫んだ。この時ばかりは、遠く離れたこの場所を憎んだ。抱き寄せる彼女の身体からは温かみが感じ取れず、一目見ればそれはまるで……死んでいるように、見える。 「まだだ! まだ逝くでない! 俺は、まだそなたに……何も伝えても、与えてもやれていないのだぞ!」 今までの言葉は全て嘘だと、見舞いに来ることが心の奥では嬉しくてたまらなかったと、その笑顔に何度救われたのかと。――俺も、そなたのことが、ずっと昔……それこそ、出会った時から、恋い慕っていたと。 「……っ!」 俺は薬と水を自らの口に含み、そして腕に抱える彼女の唇へとそれをあてた。無理矢理に与えたからか、互いの口角から水が顎へと伝い落ちる。 「まだ生きるのだ……っ……!」 久方ぶりに口にした彼女の名は、じんわりと俺の心を温かくした。けれどやはり、胸が詰まるような思いがした。 どこからか聞こえてくる声や足音を耳にしながら、俺はこの細い身体を抱く腕に力を入れる。もう決して、離すことなどしないと誓いながら。 |