「――

頭の中で響くようにして聞こえるその声は、どこか懐かしく不思議なものに感じた。
私の名を呼ぶその声の主を、私は知っているはずなのになぜかはっきりと思い出せない。でもその一声だけでもこんなにも落ち着いた気持ちになるのだから、本当に不思議。




けれど次第に声は遠くなり、ぼんやりとしか聞こえなくなる。その代わりにまた他に、今のものよりもずっとはっきりと私の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
ぼやけたものとはっきりしたものとが合わさり、ざわざわと頭の中を震わせている。名前をひとつ、ひとつと呼ばれる度にまどろみから浮かび上がって行くような、そんな感覚も伴って。
その二つの声が交わって響いたのもつかの間。ばやけていた声は少しずつ遠くへと消えていき、片方の声だけがはっきりとずっと近く大きくなっていく。強く、強く、名前を呼んで、呼び起こすかのように、何度も何度も呼ばれて――

「……ん、」
「――っ! !!」
「……と、め」

鮮明にならぬ視界の中で、微かに浮かぶ目の前の影。幾度か瞬きを繰り返すと、影になっていた姿をはっきりと捉える事が出来た。
すぐ近くにいるのだと分かっただけで安心する、愛しくてたまらない彼がそこにいた。でもその表情はどこか険しく、焦っている様子で何度も私の名を呼び続けている。そんなに呼ばなくたって、私はもう起きたというのに。

「とめ……留、」
「!! っ! !」
「留、どうしたの……?」
「おまっ……どうしたの、じゃねえって……」

私が起きたことにようやく気付くと、先程までの表情からは一変して留は心底呆れた様子ではあ、と重い溜息をついた。
なぜそんな溜息をつくのかも分からず、私はもう一度「なに?」と疑問符を投げかけた。

「倒れたんだよ、仕事中に。覚えてないか?」
「……なんとなく」

そう言われて記憶を辿っていくと、少しずつ思い出してきた。今日は朝にこのスーパーに来て着替えて朝礼があって、そしていつも通りに品出しをしている時急に頭が痛くなって……その後のことは分からず、今に至る。
だから多分、その品出しの最中に倒れてしまったんだと思う。よく見れば今私が寝かされているのは事務所のソファで、向こう側にはいつも店長や主任が作業をしているデスクが見える。でもデスクには誰も座っておらず、事務所には目の前の留以外に人の姿がない。

「ねえ、今何時……?」
「……14時ちょい前だな」
「じゅうよ……えっ、14時?」

それまであまりはっきりとしない頭で言葉を交わしていたけれど、留から今の時間を聞くと一気に目も頭も覚めた。

「留、仕事は!?」
「早退扱いになった。だから気にすんな」

今日は水曜日、今の時間に会社勤めの彼が目の前にいることが信じられなかった。
慌てて聞こうと身体を起こしかけると、安心させるかのような言葉と一緒に静止の手が肩に置かれた。暗に起きるなと言われているのだと分かり、私はされるがままにゆっくりとソファに身を沈めた。

「……ごめん」

申し訳なさや感謝に後悔、色んな気持ちが溢れんばかりに心の内をいっぱいにしていても、出てきたのは謝罪の言葉だけだった。
留はそれに対して何も言わず、肩に置いた手をするすると頬へと移すとそっと撫ぜる。優しげな彼の瞳と視線が合い、つられるようにして口元が緩むのを感じた。

「――

「っう……!」
「! どうした?」
「い、たい……頭が、痛い……っ!」

突然、また声がした。でも今度はさっきよりもずっとはっきりと聞こえ、そして激しい頭痛を伴っていた。
声が響く度にずきずきと鈍い痛みが襲い、あまりの痛みに思わず両手で自分の頭を押さえる。そうしたところで治まるわけもなく一層酷くなる激痛に、強く唇を噛みしめ必死に耐えようとした。でもそれすらもさせんとばかりに、声と痛みとが頭の中へガンガンと響きだす。

 

「やだっ……やめて……!」

  ――」

「い、たい……っ、やめて……もう、呼ばないで……っ!」

 ごめん。でも、俺は――……」

っ!」
「……っ留、」
「大丈夫か!? 急に苦しみ出すもんだからまた何かあったんじゃねえかって……!」

声に囚われていた意識を呼び戻したのは、またも留の声だった。ずっと聞いてきた、焼き付いて離れない彼の声。それが本物であるかを確かめようとそっと手を伸ばすと、すぐに留が両の手でしっかりと握ってくれる。
優しく包み込まれたぬくもりを感じた時にようやく、先程まで苦しめられていた頭痛が無くなっていたことに気付いた。あの声も、もう聞こえない。

「まだどこか痛むか? 医者呼んだ方が」
「ううん、大丈夫。もうどこも痛くないから」

あれだけの激痛がこんなにもすぐ、まるで嘘だったかのように綺麗に消えるなんて。信じられなかったけど、もう苦しまずに済むのならそれに越したことはない。
私が言うことが信じられないのか、こちらを心配そうに窺ってくる彼を安心させようと、握る手に力を込めて頬を緩ませる。頭痛によって倒れ、そして目の前であれだけ苦しんでしまったんだ、すぐに“大丈夫”という言葉を鵜呑みに出来ないのは無理もない。
それに私の身体は今、とても大切な時期へと差し掛かっているから尚のことそうなんだろう。

「もう、心配症だなあ留は。本当に大丈夫だよ」
「……無理すんなよ。痛くなったらすぐに言え、な?」
「……ん。ありがと」

そう言うと留は握っていた片方の手を解き、その手を私の頭の上へと置いた。そのままゆっくりと撫でられると、気持ちよさに目を細める。留の大きな手に撫でてもらうのが大好きだと知ってか知らずか、その手はすぐに止まることはなかった。

「もうお前だけの身体じゃねえんだから」
「ふふ、そうだね。私がこんな調子じゃ、留にもこの子にも怒られちゃうね」

そっと自らのお腹に触れると、とくん、とまだ聞こえるはずのない鼓動が聞こえたような気がした。
――私のお腹の中には今、一つの命が宿っているらしい
まだまだ小さな、それでも確かな命を授かったということは私にとっても留にとっても、とても喜ばしいことだった。その矢先にこんなことがあったものだから、彼の心配も相当のものだと思う。
少しでもこの子のためにと思い、彼の反対を押し切って始めたこのパートの仕事も、こんなことがあっては暫くは休まざるを得ない。でも私が倒れては元も子もない、お腹にいる子にも怒られてしまうかもしれない。それだけ今、この子の命は私に掛っていた。今日はそのことを身をもって実感した。

「……まだ寝てた方がいい。この部屋も自由に使っていいって言ってもらったから、今は存分に甘えとけ」
「……あとで謝らないと、だね……」

「とにかく今は休め。が寝るまで、ここにいっから」

一定のリズムで頭を撫でられ、だんだんと瞼が重くなっていき上手く羅列が回らなくなる。再び意識がぼんやりとしてきたけど、これが眠気からくるものだと分かると自然とそれに身を任せた。

「とめ……手、やめないで……」
「ああ。ずっとこうしてる」
「……あった、かい」

あの痛みがあったことを忘れさせるかのように、彼の手はゆっくりと頭を撫で続ける。たまに前髪をくしゃりと掬うのがくすぐったくて、でもそれがとても心地いい。
うとうととしてきながらも、私はさっきまで聞こえてたあの声について話そうと口を開いた。

「あのね……声が、するの」
「ん?」
「誰かの声、が……」

私の名前を、何度も呼ぶの。
最近になってからずっと聞こえてくるあの声が、私はどうしても知らないものだとは思えなかった。絶対にどこかで聞いたことがあると思うのに、それでいてはっきりと思い出すことが出来ないからもどかしい。

「その声が、ね……留と似てるの。、って呼ぶ声が……」
「……もしかして、俺かもしれねえな」
「え……?」
「ずっと、のことを考えてたから」
「……へへ。そう、なのかな」
「ああ。そうだ、きっとそうだ」

徐々に狭くなっていく視界の中で留の顔に微笑みが浮かんでいるのを捉えると、私は言葉にならぬ声を残して眠気に完全に身を任せた。心地よいまどろみの中へと飛び込んで行く途中、どこかで「おやすみ」という声が聞こえたような気がした。



柔らかな髪を手で掬いながら、穏やかに眠るその顔を見て安堵する。
最近、何度かから「よく声がするの」と話を出されたことはあったが俺は全部に「気のせいだろ」と曖昧な返事しかしてこなかった。がその答えに納得するはずもなく、散々答えるのを渋ってきた結果がこれなんだと心の底から後悔する。
俺がここまで引っ張ってきたから、何も知らないは“声”と頭痛に悩まされて遂に限界がきてしまったんだと思う。
が倒れた、と連絡が来た時は一瞬目の前が真っ暗になったが、彼女自身にもお腹の子供にも怪我や影響がないと聞き、視界が一気に明るくなったのを覚えている。

「……あと少しだけ、我慢してくれ」

届いているかは分からない、それでも言わずにはいられなかった。
――あの時の記憶が戻ろうとしている
から声のことを聞いた時、それを確信した。
前世の記憶ってやつかどうかは知らねえけど、俺はそれを持っている。忍者が存在する世界で、その忍者になるための勉強に励む自分や級友、そしての姿が今でも鮮明に思い出せる。
この時代に生きる自分が学生時代に経験したものよりも、遥かに勝る楽しい思い出ばかりあった。でもそれ以上に、辛いことの方が多かった。時代のせいでもあるんだろうが、俺は何人の人間を手にかけてきたのか分からない。今でもこうしての頭に触れているこの手が、人を殺めた手じゃないかとぞっとする時がある。 俺が覚えているだけでも数えきれぬ程の辛く苦しい経験があるのだから、があの時代で経験したことは全部がよいものだとは思えない。の最期を知るからこそ分かることだった。

(もう限界、ってことだよな)

知らぬままでいるのも、限界なんだろう。
この時代で初めてに会った時、際限なく溢れる嬉しさの半面であの辛い記憶があるんじゃないかという一抹の不安が過った。
「はじめまして、です!」
でも明るい笑顔や振る舞いを見て、それが杞憂に終わったのだと安心していた。今の今まで、はずっとあの時のままなんだと思い込んでいた。俺のことを全く覚えていなくても、俺だけが辛い思いをするのならまだマシだと思っていた。けれど今度は、そうはいかない。

(もうが傷つくのを、見たくねえってのに……!)

この時代に産まれ、再びと出会えた
“はじめまして”の言葉に心が抉られるようだった
俺たちとの間に新しい命が宿っていた
あの辛い記憶が正に今、戻ろうとしている

図ったかのようにして訪れる苦楽に、俺たちが試されているんじゃないかという錯覚すら覚える。でもこれは避けては通れない道なんだろう、昔の記憶なんていうものは特に、だ。
さっきよりはずっと顔色が良くなったの頬を撫ぜながら、俺はずっとどうやって話を切り出そうかと思案に暮れた。
せめて今だけは、安らかな眠りをと思いながら。



夢を見た。
それもいつも見るような曖昧なものじゃない、はっきりとしたビジョンで見る夢。
見慣れない風景に違和感を抱いたものの、それでもどうしようもないくらいはっきりとした懐かしさを覚えた。



ふと聞こえてきた声。幾度となく頭に響いていた、あの声と同じだった。
振り向けばそこには、緑色の服に身を包んだ男の人がいた。よく見れば彼は――留三郎にとても似ていて、否、本人じゃないかと思った。



何度か私の名前を呼ぶその声は、頭の中にじんわりと響き渡る。呼ばれながらすっと差し伸ばされた大きな手を見て、私は躊躇うことなくその手を取った。

「留三郎」
「――おかえり」

握り返された時のぬくもりは、眠りにつく前に感じた留のものと一緒だった。でもそれを考えている暇もないくらいに、私は夢の中でとめどなく溢れてくる懐かしさと幸せに泣きそうになっていた。
おかえり、その言葉がじんわりと胸に届いたのを覚えながら、私は手を引かれるがままに歩いて行った。楽しそうな声が沢山する、あの場所へと。