全身のだるさと頭痛、そして喉の渇きを感じて私は重い瞼をゆるゆると持ち上げた。遮光カーテンから差し込む僅かな光を見て、頭の隅でぼんやりと「ああ、もう朝か」と思いながら、鉛のように重い身体を起こす。
少し動かすだけでも節々が悲鳴を上げ、まだ風邪が完治などしていないことをようやく実感した。なるべく響かぬように、ゆっくりと腕を動かして枕元にあったペットボトルを掴み、喉の渇きを潤す。たった一口の水でも、渇ききっていた身体にはそれだけで生き返るように、喉に染みわたっていた。
寝ている間に汗をかいたせいで、べとべととした感覚が気持ち悪い。視線を横に向ければ、ベッドの周りには服やらタオルやらが散乱していて、汗の不快感に続きますます気分を悪化させた。
まさか一日徹夜しただけで風邪をこじらせ、しかも三日もそれに悩まされることになるなんて思いもしなかった。学生の頃はテストや受験のために連日徹夜をした時もあったというのに、仕事の疲れとも重なってしまったらしく、確実に歳を取っているのだと言われているような感覚を否めなかった。

(もう10時……本当なら、今ごろ……)

風邪なんて引いていなければ、やっと取れた休みを兵助と二人で楽しんでいるはずだったのに。
携帯を開き、昨日の夜彼に送った「明日だめになった。ごめん」と書いただけのメールを見て、我ながらなんて素っ気ないものなんだろうと思った。返信のないところを見ると、やはりあちらもメールの内容に呆れかえったんだろう。
自業自得とは分かっているけど、今日の予定を駄目にした風邪とあんなメールを送った自分がつくづく嫌になり、携帯を抱えたまままた布団にひっくり返った。彼に会えない寂しさか風邪からくる心細さか、無性に泣きたくなってきた。

――ピンポーン

こんな時にも、インターフォンは無情にも鳴り響く。わざわざ宅配や新聞の勧誘のために身体を起こすのは面倒で、少しかわいそうではあるが、早く帰れと扉の向こうにいる人へと念を送った。

「……?」

聞こえてきたのは、宅配を知らせる声でも在宅を確認する声でもなく、今一番、会いたくなくて会いたいと思っていた彼の声だった。

「いるんだろ? 開けるぞ」
「えっ、ちょ……待って!」

ガチャガチャ、と鍵を開ける音がする。忘れてた、兵助にはここの合鍵をあげてるからこちらから開けずとも自由に入れてしまうんだった。
とにかく今は彼がここに来たことに驚くよりもまず、こんなにも散らかっている部屋の中に入れないようにするには、一体どうするべきかを考えなくてはいけない。いつも彼を招き入れる時は片付けを徹底しているから、まさか私がこんなに散らかすことが出来る女だとはやっぱり思われたくはない。
でもそんなことを考えている間もなく扉は開き、日差しと共に普段着姿の兵助が中へと入ってきてしまった。

「あー……」
「邪魔するぞ。……わっ、凄いな」
「ごめん、散らかってるから……気をつけて」

入ってしまったら仕方がない、もう追い返すことも出来ず私はとりあえず足元の注意を促す。散らかっているフローリングの上を物を上手く避けながら、兵助は枕元までやってきた。
手に持っていた袋を置くと、そのまま腰を下ろしこちらを窺ってきた。

「やっぱり風邪か。こういう大事なことはちゃんと書けよ」
「……どうして分かったの。風邪引いてるって」
「勘。でもは我慢して色んなこと隠す癖あるから、あのメール見て予想はついた」

汗で頬に張りついていた髪を指で払いのけながら、少しだけ呆れたように兵助は言った。
風邪で行けなくなったなんて言うのがなんだか申し訳なく、心配もかけたくなくてあんな素っ気ないメールになってしまった。けど何も書かなかったことがかえって不信感を募らせ、結局全て見抜かれていたらしい。
なんだか自分一人が空回りしたようで、こうなるんだったらもう少し早く連絡をしておけばよかったなあと後悔した。そうすれば兵助が突然来ることもなく、少しくらい部屋を片付けられたかもしれないのに。

「で、熱は? まだあるんだろ」
「……まだ、測ってない」

だって起きたばっかだもん、とちょっとした嫌味でも言ってやろうかと思ったけど、兵助が上から被さってきたために口からは先に驚きの声が出ていた。

「えっ、なに、」

出かけていた言葉は口の中で消え、次に彼の手が降ってきたことで今度は驚きとも戸惑いとも言えぬ声だけが出た。
大きな手で前髪をあげると、露わになった私の額に兵助のそれがあてられた。額同士がぶつかりあっているから、お互いの顔の距離はかなり近い。思わぬ至近距離と熱も合いなって、触れている兵助の手が一層冷たく感じられ「兵助の手、冷たくて気持ちいい」と呟くと彼はふ、と含み笑いをこぼしした。

「お前が熱いんだよ。病院は行ったのか?」
「一昨日と、昨日、行った。インフルエンザとかじゃないって」
「そうか。じゃあ、ちゃんと休んでれば治るんだな」
「……でもうつっちゃうから、あんま近づかない方がいいよ」

風邪をうつしたら大変だ、とすぐ近くにある兵助の身体を押した。額で熱を測ったらしく、熱いことが分かると押されたこともあるのか、すぐに離れていった。
自分で言ったにも関わらず、彼の冷たく気持ちの良い額と手が離れてしまったのが、少しだけ寂しいと思ってしまった。それを知ってか知らずか、兵助は今度はあげた前髪を戻しながら、優しく頭を撫でてくれた。まるで子供あやすような柔らかい手つきで、恥ずかしながらも心地よさを感じていた。

「飯は? ちゃんと薬飲んだのか?」
「あんまし、食欲なくて……薬は、飲んだよ」

何かお腹に入れてから薬を飲んだ方がいいんだろうけど、いかんせん食欲も作る気力もなく、ここ数日で口にしたのは水と薬と少しのご飯だけだった。だから尚更治りが遅いのかも、とは知っていても重い身体を動かすのは億劫だった。

「そうだと思った。今お粥作ってやるから、しっかり食べて薬飲め」
「えっ、いいよそんな、」
「寝てろって。台所、使うぞ」

そこまでしなくていいのに、と布団から起きて引きとめようとしたものの、簡単に押し戻されてしまい結局兵助は台所へと行ってしまった。
私は大人しく彼に従うことにし、大人しく上から毛布をかぶった。兵助が持ってきた袋には、飲み物や食材が入っていたようで、ガサガサと取り出す音や少しすると包丁の音も聞こえてきた。
時間が経つにつれて部屋に漂う美味しそうな匂いに、思わず鼻がくすぐられる。食欲がないとは言ったものの、身体は正直なようで次第に空腹を感じつつあった。
「ほら、おまたせ」と彼が持ってきた器には、食欲をそそる湯気の立つおかゆがよそられていた。

「もしかして、また豆腐?」
「悪いかよ。身体にいいんだぞ、豆腐は」

白いお粥の上にはねぎだけが乗っていて、まさかとは思い言ってみたらやっぱり図星だった。兵助の豆腐好きは今に始まったことではないけど、こんな時まで豆腐を薦められるとは思ってもなかった。
それでもわざわざ作ってくれたのが嬉しいのは変わらず、ありがたく頂くことにした。手を貸してもらいながら起き上がって、兵助からお粥の器を受け取ろうと思い手を差し出す。

「ん」
「……え、なに」
「ちゃんとが食べるように、って」
「そんなことしなくっても食べるよ……」
「いいから」
「…………」

受け取ろうとしたのに、兵助は自分でレンゲを使いお粥を掬うと、そのまま私の口元まで持ってきたのだ。食べさせてくれるらしいけど、やっぱり大人になってからされるのでは抵抗がある。
でも兵助は大きな瞳でこっちをじっと見ていて、こんな真剣な面持ちになってしまえばもう引かないことを私はよく知っていた。だから何も言わず、どうにでもなれと半ばヤケになりつつ口を開いた。
口に運んでくれたお粥は、するすると喉を通っていく。ちょうどいい温かさと味加減は、空腹を抜きにしても本当に美味しいと思った。豆腐粥、結構好きかもしれない。
時々兵助がふうふうと冷ましながら食べさせてくれるお粥を、私は黙々と口にしていた。「これで最後」という声と一緒に運ばれたお粥をお腹におさめると、久しぶりに感じる満腹感に心なしか瞼がとろんと重くなった気がした。

「よし、全部食べれたな」
「ん。……美味しかった。ありがとね」
「次は薬か。どこ?」
「あー、それ、だけど……」

空になった器とレンゲを置き、次に兵助は薬の場所を聞いてきた。でも流石にこれ以上一緒にいるのはますます風邪をうつしてしまいそうで、私は薬の袋とペットボトルを持つ兵助の手を掴んだ。

「あの、さ。もう薬飲んで寝るだけだから、兵助は帰った方がいいよ」
「なんで? 俺も今日休みだって知ってるだろ」
「そういうことじゃなくて……ほら、うつっちゃうし、これ以上は」

お粥も作ってもらい、それだけでも申し訳ないのに、これ以上ここにいたら本当に風邪をうつしかねない。また一人になるのは正直嫌だったけれど、兵助にうつすくらいなら仕方ないと思い進言は止めなかった。

「……は、俺がいるのが嫌なの?」
「どうしてそうなるのよ! だから、もう一人で大丈夫だから、兵助は帰ったほうがいって。折角の休みだし、家でのんびりしたいでしょ?」
「…………」

ペットボトルの蓋を開けようとしていた、兵助の手が止まる。でもそれと同時に、彼の顔がむっと不満そうに変わったことまでは見えなかった。
手が止まったのを見て、帰るのかなと少しほっと安心したのが、間違いだった。手が止まったのは一瞬で、兵助の手は蓋を開けるとすぐに薬へと伸びていく。何をするかと思いきや、そのまま薬を自分の口に含んでいた。

「兵助、なに――っんう、」

一体何しているのか、と聞こうと口を開いた瞬間、それは兵助の唇によって塞がれてしまった。突然のことに頭が追い付かず、私は背に回された手と唇の熱をあつい、とぼんやりとしてきた意識の中で思うだけだった。
彼の舌と一緒に流れ込んできた水と薬は、いやおうなしに口の中へ中へと入っていこうとする。それらを必死に飲み込もうとしても中々喉が上手く動かせず、熱で溶け始めた薬の苦さがどんどんと口内をも浸食し始める。まるで毒でも飲まされているような、そんな感覚さえしてしまうくらい、意識は徐々に朦朧としていく。
溶けだした薬の苦みを察知してか、兵助の舌が飲むのを急かすようにぐいぐいと喉の奥へと動いている。

「ん、ふうっ……!」

舌と舌とが絡み合い、厭らしく響く水音が堪らなく恥ずかしく思った時、喉が音を立ててようやく口の中にあったものを飲み込むことが出来た。
それが分かると兵助は唇を離し、透明な細い糸がつうっ、と二人の舌を結びすぐに切れた。

「……はぁっ、へ、すけ……」
「これで、俺も風邪引いたな」
「そん、な……呑気なっ、」
「だって今度は、が看病してくれるんだろ」
「は、ってちょっと、」

まだ話は終わってないのに、また布団に横にしようと身体を押されてしまい、抵抗も虚しく支えられながらぽすん、と落ち着いた。彼によって毛布も掛けなおされ、大人しく寝ろとでも言われているようだった。

「俺は風邪引いてもなんでも、少しでも長くと一緒にいたいんだよ」
「……へい、すけ」
「だから帰ろなんて言うなよ」
「そんな、こと……」

ぽんぽん、と心地よいリズムを刻みながら、毛布の上から優しく叩くのが徐々に眠気を誘っていく。もっと兵助に言いたいことがあるのに、重くなる瞼に逆らうことは出来なかった。
まだうっすらと意識のある中、兵助が微笑んだように見えたのだけど、それを確かめることなく私は瞼の重さに負けてしまった。

「おやすみ、

遠くに彼の声を聞き、私の意識は完全に夢へと落ちてく。
兵助にはまだ言いたいことが沢山あったのに、薬の副作用か満腹感からかあのリズムのせいか、あっという間に意識を手放してしまったのが悔しい。目が覚めても彼が傍にいればいいのに、と思いながら、まず一番に言いたい言葉だけはしっかりと記憶に刻みつけた。
――一緒にいてくれて、ありがとう