ナースステーションでカルテの整理におわれていると、婦長から先生を呼んでくるように言いつけられる。猫の手どころじゃ間に合わないからデータ管理導入しろ、と嘆願したいくらい忙しいこの状況を見ても気にせずに、だ。
やれやれと重たい腰を上げ、呼びにいく先生の名前と用件を聞いてから、まだ半分も終わっていないカルテの山に一旦背を向けナースステーションを後にした。早いところ済ませて作業に取り掛からなければ、夜勤でもないのに残ってやるはめになってしまう。絶対に嫌だ。
1階に降りてから出来る限りの早歩きで廊下を突き進んでいくと、突当たりに外来用診療室が見えた。一呼吸置いてから、ノックをして中へと入る。

「失礼します」
「……よし、これで終わり。もう大丈夫でしょう」

ちょうど診療が終わったらしく、こちらからは先生の背中と患者さんが見えた。その隣に小さな男の子もいて、お母さんの付き添いかなと予想がついた。

「ねえせんせえ、ママもういたいいたいしないー?」
「ああ! ママの中で悪さをしていた病気は、先生とお薬が治してくれたからな」
「ほんとー!? よかったねえママ!」
「そうね、ゆー君も先生にお礼しましょうね。先生、本当にありがとうございました」
「ありがとーございましたー!」
「おうっ!」

男の子からもお礼を言われると、先生はかがんでその子の頭を撫でぐりまわした。嫌がるどころか満足している様子の男の子は、先生の手が離れるとお母さんと思われる患者さんに手を引かれ、診療室を出るようだった。私が扉を開け「お大事に」と声をかければ会釈を返され、外来患者さんは帰っていった。
扉を閉め、もういいだろうと思い私は用件を伝えようと口を開く。

「先生、外科の立花先生がお呼びです。至急外科病棟に来るようにとのことです」
「えー仙ちゃんがー?」
「……立花、先生です」

さっきまでの頼もしい先生はどこへやら、二人きりになった途端態度も口調もラフなものへと変わったのを見て、呆れながら呼称の訂正を入れた。いくら級友とは言えど、仕事中くらいは分別をしてほしいものだ。
だいたい先生同士、それこそ級友同士なのだからナースを仲介に入れずとも直接電話や放送やらで呼びだせばいいのに、あの陰湿サド立花野郎。私たちをからかっていることが嫌というほど分かる。

「また面倒くさい話を延々とされるだけなんだよなー。、断っておいてくれないか?」
「どうして私が。直接ご自分でお話ください。それと、私のことは名前ではなく苗字で呼んでくださいとあれほど言いましたよね?」
「そんな細かいこといいじゃないか、呼びたいように呼べばいいだろう。ほら、いつものように小平太って」
「ちょっ! シーッ、やめてってば!」

慌てて先生の口を塞ぎ、黙るようにジェスチャーをつけて押さえつけた。今は二人きりであっても、ここは診療室だからいつ誰が来てもおかしくはない。
もし誰かに名前で呼び合っていることを聞かれでもすれば、噂に尾ひれがつきまくって大変なことになる。

は可愛いな、シーッって私は子供じゃもごごっ」
「うっさい黙れ七松!! こんなところ聞かれてでもして、私たちのことがバレたらどうしてくれんのよっ!」

なおも黙らない口をもう一度塞ぎ、念の為にと耳を澄ましながら周囲を見渡した。足音は聞こえるものの、中に入ってくるような気配はなくホッと胸を撫で下ろす。
私たちのこと、この七松小平太という医師と看護師の私が恋人関係にあることは、職場においては絶対の秘密にしていた。医師と看護師の恋愛は厳禁とされているわけではないけれど、あったらあったで色んな目が飛んでくるのだ。人の多い大学病院であれば、なおのこと噂が広がるのは早い。それも良いものでなく悪いものとして、だ。
だから病院ではお互い苗字で呼ぼうって、あれだけ念には念を押して言ったというのに。彼はまるでそのことを忘れてしまったかのように、ていうか絶対忘れてるだろこれ、ってくらいしつこく名前で呼んでくる。

「みんなのことを名前で呼んでるならただのスケベ医者ってことで説明がつくけど、私だけ名前呼びなんてみんな怪しむに決まってんでしょ! 最近何かと七松先生の話題が出てくるからこっちは冷や汗ものなのよ……!」

嫌な噂立てられて、最悪この病院にいられなくなったらどうするの。
言わずとも分かるだろう、という意も込めて彼の目を真剣に見た。いつも人を振りまわしてばかりでまるで子供のような小平太だけれど、こっちが真剣に訴えかければちゃんと分かってくれるのだ。
暫くそのままでいると、口を塞がれているせいで声が出せないからか、小平太が目を伏せた。それを承諾の合図と思い、手を外してやろうと力を緩める。

「――っ、わ!?」
「誰がスケベ医者、だって?」

手の力を緩めた瞬間、今度は小平太の手が私の手を掴んで、そのまま強い力で引き寄せられる。そうして身体を反転させられ、あっという間に形勢逆転されてしまった。しかも私の後ろは壁、逃げられやしない。

「なっ、七松先生、悪ふざけはやめてください。外来の患者さんがいる来るか分からないんですよ」
「今さら何を言ってるんだ? 外来の診療時間は終わってるし、患者もあの親子で最後だ」
「!?」

誰も入ってこないことを、逆に怪しむべきだった。彼の言うとおり、肩ごしに見えた時計は外来の診療時間終了の時刻を指していた。

「なあ、どうして名前で呼んだら駄目なんだ? いつもならだって小平太、と呼んでくれるのに」
「それはここじゃない、ところでの話だってばっ! もうほんとちょ、離してって」
「嫌だ。がちゃんと俺の名前を呼んでくれるまで、離さない」

ギリッ、とまた手を押さえつける力が強くなった。こちらが真剣に訴えかければ素直に応じるけれど、こんな獣みたいな目をした本気の彼は、もう誰にも止められない。
徐々に迫ってくる顔に、私は恐れか怒りか緊張か、どれかとも分からぬ気持ちからずっと逸らせずにいた。

「……っ、どうしてそんな、名前で呼ばれることに執着するの? 外ではちゃんと呼んでるのに」
「足りないから。俺がこうしての名前を呼ぶのは、それだけを必要としてるってことだ。それなのに、は俺のことを名前で呼んでくれない。一番長くいる病院でこそ、そう呼んでほしいのに」

向こうから顔が逸らされた、かと思いきや今度は首筋の辺りにそれを埋めてきた。ごわごわの髪と彼の息が当たって、くすぐったくて思わず身を捩る。

「み、苗字で……いっつも、呼んでる、じゃ」
「駄目だ。苗字と名前じゃ全然、違う」
「ひっ……ちょ、七松っ、先生!!」

生温かい息と共に犬のような八重歯が首に当たり、瞬間に鳥肌が立った。慌てて彼の手から抜けようとしたけれど、いくら身体を動かしたりしても男の、しかも未だに体力のあり余ってる馬鹿に敵うわけがなかった。

「これからは病院でも小平太、って呼ぶこと……約束出来る?」
「っう、そんなことしたら、ますます目つけられちゃうでしょうが!」

七松小平太という医者は、親しみやすさや人柄の良さで患者からの評判が大変よく、腕もそれなりによい。が、その反面、対患者用にすればよい親しみやすさが他のお偉い先生方にも向けられ、つまりはなれなれしい態度で反感を買っている。
いくら評判がよくても、それだけ沢山の先生たちに目をつけられているのでは、噂一つで飛ばされてしまうこと間違いない。まさに今、彼はすれすれの位置に留まっていられると言っても過言ではないのだ。
どこへ飛ばされてしまうかも分からないのに、そうすればもう会えなくなってしまうかもしれないのに、あなたは平気だというの。

、そんなこと心配してたのか」
「……っ、当たり前でしょ!? だって、もし離れ小島とか辺境地の病院に飛ばされでもすれば、私と、もうっ」

会えなくなるじゃない。
そう言葉を続けようとしたけれど、彼の唇で口が塞がれてしまい無理であった。

「――っ、な、にを!」
「可愛いな、ほんとかわいい」
「私は真面目に、」
「一緒に来ればいい」
「…………は?」
「だから、俺と一緒に病院辞めて、俺と一緒にまた開業すればいいだろ」

あっけからんとして言うものだから、彼が一体何を言っているのかよく分からなかった。というか頭が追い付かなかった。
一緒に辞めるなんて、そしてまた一緒に開業なんて、まるでそれは、

「プロポーズでもしてるの?」
「ん? 俺はと結婚するつもりで付き合ってたんだが」
「……よくもまあ、そんな恥ずかしい台詞……」

恥ずかしいのも通り越して、もはや呆れるしかないこの男の言葉に頭を抱えたくなった。プロポーズどころか、もう結婚する気満々じゃないか。

は違うのか?」
「そ、それは……まあ、結婚できたら、嬉しいけ」
「!! そうだろうそうだろう!」
「わっ、あーもう、ちょっと! 離してよ!!」

押しに押され、絞り出したような声で呟いたのにも関わらず、それが嬉しかったのかまた突然に抱きついてきたから私はまた慌てた。本気で迫ってきたり、首に噛みついてくるし、当然のことのように結婚の言葉を口にする、やりたい放題の小平太にいつも私はは慌てるだけで精一杯だ。

「あー……、ほんと俺、幸せだ」

そうして今度は耳元で甘えるように私の名を何度も呼ぶのだから、本当にずるい。今までのことがなんでもなかったかのように思えるくらいとても嬉しそうに、それこそ子供が甘えてくるみたいに言うんだからやるせない。
彼の言葉を借りればそれだけ私のことを必要としている、ということなんだろうけれど、それに応じるだけの気力も勇気も気恥ずかしさに負けて、彼の名前を口に出来ずにいた。
耳元にあった顔はいつの間にかまた目の前へとやってきていて、私が名前を口にするのを待つでもなく、それはまただんだんと迫ってきて――

「ブッ」
「調子乗んな!」

危うくまたキスをされそうになったのを、彼の口を手で叩くことで防いだ。それにより一瞬怯んだのを見逃さず、そのままぐいぐいと身体を押しのけ、無理矢理腕の中から逃れることが出来た。
もう壁際に追い込まれないかぎり、入口はこちら側にあるから一安心だ。

「私はまだこの病院辞める気はありません! それに七松先生にも担当患者さんが沢山いらっしゃるでしょう!」
「うっ、それは……」
「辞めるとかそんな無責任なこと、言わないでください。なんのためにお医者様になったのか、一回考え直してください」
「……すまん」

少し距離を開けて立ってから言うと、ようやく伝わったのか反省の声色で謝ってきた。本当に謝るべきは患者さんなんだろうけど、あんなことをしでかしたことも反省してると見て、私も謝罪を受け取った。

「分かってくださればいいです。外来の診療が終わったんですから、すぐに立花先生のところに行ってくださいね」
「…………」

扉に手をかけながら言うと、彼からの返事はない。よっぽど立花先生と話したくないのか、それとも私の返した答えに不満でもあるのか。
機嫌を損ねたようで、暫くそのまま無言の状態が診療室に流れていた。

「……嬉しいのは、私だって……」
「へ?」
「そんなすぐに辞めなくたって、私はいつまでも待ってますよ。 結婚、は……小平太と、したいから」
「!! っ、」
「失礼します!」

言い終わると同時に扉を開け、そしてすぐさま後ろ手で閉めた。まるで全力疾走した後のように煩く脈打つ心臓の音が聞こえ、徐々に顔に熱が集まってくるのを感じていた。
自分でも何を言ってしまったんだろう、と少しだけ後悔した。最後の最後にあんなことを口にすれば、折角反省した小平太をますます調子づかせてしまうのは目に見えていたのに。
後悔をしている、反面、どこかすっきりとした心持ちの自分もいて、やっぱりいつまでたっても彼には勝てぬのだ、と諦めがついた。

そこまで諦めがついたところで、ふとナースステーションに残してきたカルテの山を思い出して、私は残業から免れるべく再び廊下を全力の早歩きで突き進んでいった。
顔に集まった熱がどうにかして収まらないかと、不自然にも首筋に手を当てながら歩く姿は、誰がどう見ても怪しかったことなど……その時だけは小平太のことで頭がいっぱいだった私に、分かるわけもなかった。