ザァザァと音を立てながら、大きな雨粒がとめどなく地面に降り注いでいる。そんな様子を、店先の屋根の下で雨宿りをしながら恨めしく見ていた。
花火の打ち上げ開始は午後7時、今の時間は午後7時30分。先程、花火の中止がアナウンスによって告げられたところだった。
小雨程度ならまだしも、こんな大雨でしかもやみそうにないとなると、中止せざるを得ないことは理解できる。理解は、できる。できるけれど、それに納得しろと言われれば、無理な話だ。私が今日の花火をどれだけ楽しみにしていたかなんて、ただ大量に落ちていくだけの水が知るわけもない。ぶつけようのない恨みと悔しさをこめて、厚く黒い雲に覆われた空を睨みつけた。

、顔が怖いよ」
「……元からこういう顔だからいいの」

いくら喜八郎に言われても、こんな気分ではすぐに顔を戻すことなんてできやしない。
私と同じように、この花火を楽しみにやってきた人だっているだろうに。それなのにこの雨では帰りたくても帰れず足止めを食らい、こうして雨宿りしている人だって少なくはないはず。にも関わらず、雨はやまない。どうやら私たちに花火を見せないだけでは飽き足らず、濡れて帰れということらしい。散々すぎる。

「何か食べる?」
「……いらない」
「じゃあ僕、ちょっと出店行ってくるから」

どうやらお腹が空いていたらしく、喜八郎はそう言うと雨の中、どこかの出店へと向かうべく行ってしまった。自由気ままで、何を考えているかよく分からない時が多い彼だから、こうした行動も珍しくはない……けれど、今一人きりにされると、ますます気分はだださがりになるばかりだった。
花火なんて一人で見たってつまらない、喜八郎と見れるからとても楽しみだったのに。なのに全部、雨のせいで。

「……お祭りなんて、大嫌い」

花火も見れない、すぐに帰れない、おまけに出店に喜八郎を取られた。今日は一体、何しに来たんだっけ?

「なんだかさっきよりも酷い顔になってる」
「っ、馬鹿八郎!! なんで置いて行っちゃうのよ!」
「だっていらないって言ったし。食べる? りんご飴」

いつの間にか戻ってきた喜八郎に八つ当たりすると、さらりとかわされ買ってきたと思われるりんご飴を差し出された。
気分は最悪、けれども美味しそうに輝く飴を見ると、どうも食欲が勝ってくる。自分でいらないとは言ったものの、少しだけ貰っちゃおうとなんとも勝手な行動をしようとした。
でも差し出された飴を受け取る時、ふと目に入った彼の姿を見て食べるどころではなくなっていた。折角の浴衣だというのに、喜八郎は頭から全身にかけて雨によってずぶ濡れになっていた。

「ちょっ、喜八郎!?」
「なに? 食べないの?」
「いやいや、それよりも濡れてっ、」
「こんな大雨の中を歩けば濡れるに決まってるでしょ」

いやいやそういうことじゃないだろう。
思わず頭をペシンと叩いてやりたくなったけれど、こんな状態では無理だ。私が言いたいのは、なんでそんなに濡れているのに気にしないでいるのかっていうことであって、というかそもそもこんな大雨の中りんご飴だけを買いに出て行く奴がいるか!
花火が中止になったことにだけ意識がいっていて、いつものように喜八郎を止めることが出来なかったのが失態だった。鞄からハンカチを取り出し、ふわふわだったのに今はもうぺちゃんこになってしまっている髪を拭いた。夏とは言えど、濡れたままでいれば風邪だって引いてしまうのに、どうしてけろっとしているんだろうかこの男は。

「もー……大人しく雨宿りしてればよかったのに」
「欲しいものがあったから」

髪を一通り拭くと、次は顔にかけてハンカチを当てる。髪を拭いただけでも随分とたくさん水分を吸ってしまっていたけど、構わず額に滴る水を拭き取った。

「りんご飴? 別に今じゃなくても……」
「違う」
「ん?」
「これ」

そう言って差し出してきたもう一方の手には、小さな傘が握られていた。ピンクの花模様のそれは、大きさからも柄からも子供用であることが分かる。

「どうしたのこれ、買ったの?」
「おまけでもらった」
「おまけ?」

こくり、と頷くと喜八郎は傘の留め具を外してからパンッと音を立てて開いた。子供用なだけあって小さいけれど、一人くらいなら雨をしのげそうだ。
柄が可愛すぎて、私や喜八郎が持つには少々気が引けるが、この際文句などは言っていられない。

「はい、持って」
「え、なんで」
「行くよ」

片手にりんご飴、片手に開いた傘を私に持たせると、喜八郎はまた雨の降り続いている外へと行ってしまった。
突然のことに驚いている暇もなく、彼の背中はどんどん遠くへ離れて行く。なんなのよもう、と一人声をついてから、私も小さい傘をさして外へと飛び出す。傘に当たる雨の音は思ったよりも大きく、強く叩きつけるようにして落ちていくのが手を伝わって感じた。

「喜八郎っ! 待ってよ、濡れちゃうって!」
はそれをさせばいいよ。それに僕はもう濡れてるから今さら気にならないし」

イラッ。
花火という楽しみを奪われたことは、とても悔しく雨に対して怒りが募る。でもそれ以上に腹立たしいのは、人の話も聞かずひょうひょうと勝手な行動をする、この男だ。
その怒りが頂点に達したのを心のどこかで感じつつ、離れていく背中に走って追いつくとりんご飴を持ったまま、手を振り上げた。

「だから、そういう問題じゃ……ないでしょうがっ!」
「あいたっ。何するの
「その馬鹿な頭をひっぱたいてやったのよ! この馬鹿はちろー!!」
「人のことを馬鹿馬鹿言わないでよ。にだけは馬鹿って言われたくないのに」

人が一度は我慢してそれでも殴ってやったというのに、喜八郎は懲りずに減らず口を叩いている。暗に私が馬鹿と言っているようにしか聞こえないし。
痛そうな素振りをしているけれど、私はそんな訴えも気にせず傘を掲げた。

「……何してるの?」
「頑張って相合傘するの!」
「そんな小さい傘で?」
「だから頑張るんでしょうが! ほら、もっとかかんで」

子供用なのははなから承知、でも無いよりは濡れずに済むだろう。でも私よりも背の高い喜八郎と相合傘をするためには、もう少し彼がかかんで低くなってもらわないといけない。
必死に腕を伸ばして傘を上へと掲げていると、喜八郎の手が傘へと伸びてきた。

「あっ、」
「早く行こう。急いでるんだから」

喜八郎は私から傘を取ると、空いている方の手で肩を引きよせてきた。いつも何考えてるかよく分からない奴だけど、こういう時はちゃんと男なんだなあと少し感心してしまった。
抱き寄せながらも、傘は私の方に傾けながらもさしているからまた感心。
なぜ急いでいるのかが気になったけれど、これ以上喜八郎を濡らすわけにもいかないと思い、足を速めて喜八郎についていくことにした。一体どこへ行くのかは分からないけれど、とにかく雨がしのげる場所であればどこでもよかった。
音をたてて傘へと落ちてくる雨は、未だにその勢いが衰えることはない。



「雨は……しのげるけど……」
「あ、そこぬかるんでるから」
「わっ!」

もうちょっと早く言ってほしかった、と言いそうになった口を噤む。雨がしのげる場所ならどこでもいい、と思った数分前の自分に怒られると思ったし、その点では喜八郎には感謝するべきだから。
河川敷にかかる橋の下だって、立派な雨宿りが出来る場所だ。そう、出来る、けど。

(もうちょっとこう……お店に入るとかではないのね……)

ここに来るまでの道にファミレスだってあったのに、それを通り過ぎて私たちは橋の下に来ていた。
完全に空からはシャットダウンされ、雨をしのぐどころか音さえもあまり聞こえない。そろそろ耳触りに思っていた、あの叩きつけるような音が聞こえなくなって少し気が楽になった。
ぬかるんだ場所から離れ喜八郎の元へと向かおうとすると、そこでちょうど目が合った。頭からずぶ濡れになっているのが見え、私はもう一度拭こうとハンカチを取り出そうと鞄に手をかけた。

「さっきよりも濡れちゃってるね……」
「これ、出来るといいんだけど」
「ハンカチ、って……えええええっ!? ちょっ、喜八郎それ!?」
「うるさい」

喜八郎が懐に手を入れたから、てっきり自分のハンカチでもあるのかと思ったのに。そこから出てきたのは、花火セットだった。よくそこに入っていたな、というかなんで持っているの喜八郎。

「これ、一体どこで」
「出店で売ってたから買った。ちなみにこれのおまけでその傘を貰ったの」
「……あ、そうだったの……」
「ライターもつけてもらったから、うまくいけば出来ると思うよ。花火」

袋を開けると、いくつかの花火と一緒に蝋燭を取り出した。それを置いてから、もらったというライターで火をつけると辺りがぼんやりと明るくなる。
そしてやっと急いでいた理由が分かった。懐にしまった花火を、しけらせないためだったんだ。

「ねえ喜八郎、どうして花火なんて買ったの?」
「……誰かさんが怖い顔してたからかなあ」
「……きはちろー……」

はい、と手渡された花火を受け取りながら、私は今までにないくらいかっこよく思える喜八郎をまじまじと見ていた。私のことを見ていないようでちゃんと見ていて、それでたまにこうやって驚くような嬉しいこともしてくる。本当に不思議な男だ、喜八郎は。

「私、火つけてみるっ!」
「うん。やってみて」

折角私のために喜八郎が買ってきてくれた花火なのだから、中止になった花火の分まで思い切り楽しまなければ!
そう意気揚々と蝋燭の火に花火を当て、火花が散るのをじっと待った……待って、待って……

「……つ、つかない」
「やっぱりしけったかな」
「そんな呑気なっ! 次よ、次のならつくはず!」

持っていた花火を捨て、次に種類の違うものも火にかざして様子を見た。けれどこれも火がつかず、また捨てて次のを火にかざす、それを何回も繰り返した。
そうこう繰り返しているうちに、だんだんと蝋燭の長さが短くなっていき、あと少し火も消えてしまいそうになっていた。それまでについた花火の数はゼロ、全てがこの雨と湿気のせいでしけってしまっていた。

「おやまあ。やっぱり駄目だった?」
「駄目じゃないっ! これでつくはずだもの!」

意地でもつけてやる、そう思い取り出した花火は、束になっていた最後の一本だった。
今までよりも一番優しく、慎重に火の方へと先を近づけ、それが中に包まれている火薬へとつくのを祈った。きっと火がつけば、色鮮やかな光が噴き出てくるはず。その光景は安易に想像できるのに、手元の花火は噴き出るどころか火すらつかない。
やがて私の願いも虚しく、花火からは煙だけが出て蝋燭の火も消えてしまった。これでもう、花火は終わり。

「…………」
「……?」
「……最悪。全部全部、雨のせいで……こんな、」

しけっている最後の花火を地面に捨て、私は汚れることも気にせずその場にしゃがみこんだ。もう雨のせいにすることも面倒くさい、とにかく気分は最悪だ。
数週間前から花火大会のことを楽しみにして、喜八郎を誘って二人で見れることになって、久しぶりに二人きりで楽しめるんだってそう思ってた。でも今日、私はお祭りの時から――雨で花火大会が中止になってから、ずっと愚痴や文句しか言っていない。それが一番嫌で仕方なくて、情けなかった。
まるでおもちゃを買ってもらえない子供のように、気持ちを顔にも言動にも露わにして、挙句の果てに喜八郎に花火を買わせている。本当に、子供。

「……ごめん、喜八郎。私、こんなんで……」
「どうしてが謝るの。は別に何もしてないじゃない」

こういう時、彼の何気ない優しい一言が胸を突き刺す。無意識であろうからなおさら、罪悪感が心を支配するんだ。
今口を開いても謝罪しか出て来ない気がして、大人しく口を噤むことにした。急に黙った私を見て、喜八郎も何を思ったか花火の残骸を片付け始めている。

(ごめん、喜八郎)

そんな後ろ姿を見ながら心の中でそう呟いた。と、同時に彼が振り向いて目が合った。え、なに。

、最後の花火あったよ」
「……え?」

喜八郎が手にしていたのは、今までのよりも細くて短いもの――線香花火、だった。
でも今までの花火が全部しけっていたのだから、線香花火なんてもっとしけっているに違いない。あまり希望は持たず、それでも火をつけようとしている喜八郎から、私は目が離せなかった。
もう蝋燭が短くなっているから、今度はライターから直接火をつけていた。つくわけない、そう思っていたのに。
ライターに線香花火を近づけてから数秒後、先の方から小さな赤い花火がはじけ出した。

「!」
「あ、ついた。はい」
「……あ、ありがと」

小さく光る線香花火を受け取って、その明りをじいっと見つめた。小さいながらも、沢山の光が四方八方に飛びだす様子は、とても綺麗だ。
続いて喜八郎が二本目にライターを近づけると、それにも火がついて更に辺りが明るく照らされた。喜八郎も一緒にその場にしゃがんで、二人で暫く線香花火の火を見ていた。

「綺麗だね」
「うん。小さいけど」
「それがいいんでしょ。……でも本当に、これだけでもついて良かった」
「花火、見れてよかったね」

線香花火から、今度は少し上にある喜八郎の顔へと視線を向けた。相変わらず無表情で、それでも花火ではなく私の方を見ていた。

「……喜八郎のおかげ。ありがとね」

雨への腹立たしさや恨みもすっかり消え、清々しい気持ちで感謝を述べることができた。傘やりんご飴のことも含めお礼を言うと、喜八郎がゆっくりと口を開く。

「花火、ついてよかったよ」
「ん?」
「だって花火があれば、の笑った顔がよく見えるから」
「……っ!?」

その時ちょうど、私の持っていた線香花火の火種が地に落ちた。同時に辺りを照らす光の量も減り、少しだけ暗くなる。
まさか不意打ちで、突然こんなこと、喜八郎が言うとは思いもしなかった。ていうかこんなこと言うキャラだったのか、こいつは。
未だにドキドキする胸を手でおさえながら、内心きっと真っ赤になっているであろう顔が暗さで見えなければいいと思った。ちょうどいいところで線香花火が終わってくれていたからよかった。

「怖い顔してるよりも、ずっといいと思うけど」
「うっ、うるさいな! もう大丈夫だよ!」
「じゃあもっと見せてよ。はい、次の花火」
「もういい! もういいよ!」

これ以上見られたら恥ずかしすぎて死んでしまう!
普段こういったことに慣れていないから、もう私の心拍数は運動後の時よりも早いんじゃないか、ってくらい煩く鳴っている。それも気づかれないよう、喜八郎には背を向けて足に顔を埋めた。
なんでこう、恥ずかしいことを無表情にさらりと言えてしまうのか、不思議でたまらない。こうして私の中での綾部喜八郎へ抱く印象は、不思議であることが俄然強くなり、恥ずかしい奴というものが新たに追加されたのだった。

「……どうしたの」
「見ないでこないで恥ずかしいっ!」
「変な

必死に顔を見られぬようにしていたから、私は知ることもなかったけれど。この時の喜八郎の声が幾分も優しく、そしていつもの無表情ではなく微笑みを浮かべながら言っていた、なんてことはこの先一生知ることはない。
こうして橋の下での花火大会は終わり、いつの間にか雨もやんでいた。りんご飴を頬張りながら見上げた夜空には、まるで花火のように散りばった無数の星が輝いていた。